2017年10月20日金曜日

泣くチカラ。

entry #21
<サッドマネージメント塾-第21夜>

「最近涙腺が弱くなって・・・」

歳をとって涙もろくなったという人がいます。
確かに筋力の衰えと同様に、涙腺というものも弱まるのかもしれません。
また、人によってよく泣く人と、泣く姿をみることのないような人がいます。
この違いは、 涙腺の力こぶの違いもあるでしょうし、心の耐性の差ということもあるのでしょう。

ここで思い出しました。個人的な体験ですが、数年前に実母を亡くした時のことです。
一年あまりの闘病だったのですが、私は最後の一息まで共にすることができました。とても悲しかったはずなのに、今際のときに涙は出ませんでした。
その理由をいま考えると、死を目の当たりにしながらも現実感がないという麻痺状態だったのかもしれません。それとこれから葬儀に向けての緊張もあったかと思います。
通常の精神状態ではなかったということでしょうね。

むしろ、葬儀が終わってから、いつでもいつまでも涙が溢れました。何かにつけて母の面影を思い出しては涙するという状態が3年以上続きました。

この経験から、涙をこらえる方法はあるとわかります。
悲しい現実を現実のことと思わない、
自分に関係したことと思わない、
気持ちを緊張させる、
何か別のことに気を向ける、
こころを鈍感にする、
こんなことです。いや、そんなことできないという人もいるでしょうが……。

ですが、涙をこらえて泣かないでいると、感情のどこかが壊れてしまうような気がします。悲しいはずなのに、泣くのを我慢すると悲しさを失ってしまったような。
なんだか矛盾するような話ですが。

人間は感情と共に生きる生物です。
悲しいときに悲しんでこそ、うれしいときにも存分に喜べるような気がします。
自分の感情とまっすぐに向き合うことで、人間らしく生きられる。
泣くチカラがあってこそ、喜ぶチカラ、怒るチカラ、楽しむチカラも育まれるような気がします。


涙のスイッチ。

entry #20
<サッドマネージメント塾-第20夜>

涙にはスイッチみたいなものがあるのでしょうか?
悲しくもないのに、ふいに涙が溢れることがあります。
目にゴミが入った?
悲しいドラマを観た?
いえいえ、どちらも違います。

窓外の風景を眺めていたら、意味もなく涙が出てきた。
どこかから聴こえてくる音楽に、涙が誘われた。

こんな感じです。

もしかしたら軽い鬱か気分変調症に陥っている、ということも可能性としてはなくもないですが。
でも、それまでは普通に、鬱っぽくもなかったのに、涙が出てしまったなんて人、結構いると思います。

いくつか考えられます。
何か昔の経験が知らず想起されてしまったのではないでしょうか。
それは悲しい思い出とは限りません。
懐かしさであったり、優しかった母の思い出だったり、
悲しいのではなく、胸がきゅんとするような。
たぶん、風景の中の何かや、聞き覚えのある音楽、場合によっては匂いや色彩、味覚や触覚など、五感に受ける刺激から脳内にドーパミンか何かが分泌されて、涙が誘発されるのでしょう。

もうひとつは、ストレスがたまっているせいかもしれません。
ストレスがたまると自律神経系の交感神経の働きが活発になって、脈拍や血圧の急上昇といったからだの変化が起こります。
日中の活動時間は交感神経が働くのが普通ですが、休むべき時間までこの状態が続くと、
ストレスはたまりっぱなし、からだもおかしくなってしまいます。
交感神経と対をなす副交感神経が働いて、リラックス状態を促すことが必要なのです。

ストレスがたまったときは、眠ることがいちばん。j眠れば自然に交感神経が鎮まり、副交感神経が働いてストレスを解消してくれるからです。

ところで眠る以外に、もうひとつ交感神経を鎮めて副交感神経に切り替えるスイッチがあるそうです。それが涙。

交感神経の緊張が高まって、前頭前野が興奮状態になったとき、涙が流れるとスイッチが副交感神経に切り替わり、リラックス状態に誘われます。こうすることによって、眠りと同じように心はリラックスして安らぐのです。泣いた後はとてもスッキリするのはこんなメカニズムによるものだったのですね。

ストレスのせいかどうかは別として、泣くと気持ちが浄化される感じがするというのは、みんなが経験済みですよね。
entry#1「涙の止め方」でも書きましたが、泣くことはとても大切。
泣きたいときは存分に泣く、がいいのです。
遠慮なく、涙のスイッチをオンにすればいいのです。



悲しいときは泣く

こんにちは。
サッドマネージメントのふみみです。
悲しみを乗り越えていきたい、という想いを込めて
「悲しみの向こう側へ」というタイトルでブログを始めましたが、
どうも昔の歌曲タイトルとかぶっているようですし、
悲しみを抱えているあなたの気持ちに寄り添えていないような気がして、
タイトル変更しました。

想いは同じですが、
「悲しいときは泣く」
トップエントリで書いた内容通りのものにしました。

この世の、悲しみに耐えている人の力になりたい気持ちを込めて、
これからもサッドマネージメントについて考え続けます。
よろしくお願いしますね。


2017年9月30日土曜日

希死念慮という言葉。

entry #19 
<サッドマネージメント塾-第19夜>

カウンセリングを学び、サッドマネージメントについて考えているうちに、
「希死念慮」という言葉を知りました。
これまでは聞いたこともなかった言葉です。

希死念慮

いったいこれは、どう言う意味?

希死念慮とは、
「死にたい」
「死んでしまいたい」
「死ねばきっと楽になれる」
「いっそ、死んだほうがいい…」

などと漠然と自死について考えること全般をいいます。

もっと具体的に死に方を考えたり、どうやって死ぬかという方法にを調べ始めたり、
実際に死ぬという計画性が伴うと「自殺企図」という別の概念になるそうです。

つまり、希死念慮に比べると、自殺企図はずっと自死のを実現する可能性が高いということですから、危険度は高まります。
希死念慮という段階であれば、誰だって人生の中で一度くらいは頭の中をよぎることはありえることですよね。と考えると、自殺企図に比べれば心配するほどではないと考えられます。

とはいっても、「死んでしまいたい」などの希死念慮が浮かんでくるということは、かなり生きることに辛さを感じているということでしょうから、ほっておいていいというものでもないでしょう。誰かに、何かに・・・死という概念に救いを求めているとも考えられますから、やはり何かのケアが必要なのです。

ケアが必要と言われても、いったいどうすればいいのでしょうか。

こうすれば希死念慮は消える!
残念ながらそんな薬も魔法もありません。
希死念慮に至る道筋は人によって違うからです。

しかし、共通して言えることは、「死にたい」と思うのは、
「生きていたくない」、生きている意味を見失っているということです。
もしくは、生きていることに絶望して、もはや死を選ぶしかないのではないかと思いはじめます。

最初はなんとなく「死にたい」であった思いは、
やがて思い込みの深みにはまっていきます。
どんどん視野が狭くなっていくのです。
狭くなってしまった視野は、本人の力ではなかなか元には戻せないことがほとんどです。

ということを前提に考えると、ケアの方向はこんなことかもしれません。
1.一人にしない。孤立感を和らげる。
2.なぜ死にたいと思うのか、原因を聞く。
3.死にたいくらい辛い気持ちを共有してあげる。
4.一人じゃない、仲間がいることをわからせる。
5.死ぬ以外の選択肢を共に探す。

とにかく、孤立感を和らげ、仲間がいることで狭くなった視野を広げていく努力をするということが「大事なのだと思います。

最後に、「死にたい」と口には出さないけれども、希死念慮を抱えているケースもあると思います。

たとえば、
・口数が極端に減った。
・ぼんやりと空ばかり見つめる姿が増えた。
・人と関わることを嫌うようになった。
・仕事が手につかない様子がわかる。
というような人が周囲にいたら、なにか辛そうだけど、話を聞いてあげようか? と声をかけてあげる必要があると考えられますね。

今回は少し重いテーマでした。




2017年9月25日月曜日

人はなぜ怒り、人はなぜ悲しむのか。

entry #18
<サッドマネージメント塾-第18夜>

妻や子供に対して怒りの言葉を爆発させるお父さん。
部下に対して口角泡を吹いて怒鳴り散らす上司。
恋人に怒りを露わにする男女。

彼らはどうして、何を怒っているのでしょう。
時には国家の代表がマスコミの前で怒りを発することもありますね。
すべての怒りは共通した理由によるものだと思いませんか?

そうです。
自分の思うようにならないから怒っているのです。

 「進学しろって言ったじゃないか!」
「どうして売り上げを上げられないんだ!」
 「約束したじゃないのっ」
「T島は我が国家の領土だ!」

 人は、自分の思い通りにならない事柄に対して憤りを感じて怒り出す。
その怒りに相手が脅威を感じたら、怒りの前にひれ伏し、結果怒り主の思いは実現に向かうことになれば、怒りは収まっていく。

それはジャングルの王者が弱者を威嚇するのとまったく同じだ。
しかし、人間社会では、弱肉強食に逆らう人間が現れるので、怒りが徒労に帰することも往往にして起きるのです。
そんなに真っ赤になって怒っても仕方ないじゃない、と諌められることになるのですね。 

では、悲しみの場合はどうなのでしょう。 

「息子が受験に失敗した。あんなに頑張っていたのに!」
「大事なお得意先を失ってしまった」
「別れ話をされるなんて」
「裏金工作が暴露されてしまった!」 

怒りと似ているというか、思い通りにならないということが原因であるという側面は同じようです。
違うのは、おおむね結果に対してわき起こるということ。
何か大切なものを失ってしまった、失うことが決定的になった、という取り返しのつかない 事態に接した時に、嘆き、悲しみという感情が発生するのではないでしょうか。

怒りは、 まだなんとかできる、という事態に対して力づくで対処しようとする感情。
悲しみは、もはやどうしようもない、諦めるしかないが諦めきれない、という事態に直面して陥る情緒。

こう分析できると思いませんか?
こう考えると、怒りよりも悲しみの方が深い。
怒りにはまだ未来が見え隠れしているが、悲しみにはそれがないんですね。 
アンガーマネージメントは怒りをコントロールすることによって、もっと効果的に未来を実現できますよ、という処世の戦略術。
しかし、悲しみに未来がないとすれば、サッドマネージメントになんの意味があるのか。

サッドマネージメントにはもっと重要な意味があります。
目の前の事態に対する処方はできません。
しかし、その先にある人生を見据えた時、悲しみをどう乗り越えるかが重要な意味を持つと思うのですが、いかがでしょうか。

 

2017年9月24日日曜日

memento mori〜自分の死を忘れるな

entry #17
<サッドマネージメント塾-第17夜>

メメント・モリといえば、1983年に出版されたベストセラー、写真家藤原新也の写真集が有名だが、当時私はその意味をあまり考えませんでした。
「死を想え」という副題が付いているにもかかわらずです。 
今になって、メメント・モリとは、ラテン語で「いつか死ぬことを忘れるな」という言葉だと認識しました。 

(以下wikipediaより抜粋)
メメント・モリ(羅: memento mori)は、ラテン語で「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」という意味の警句。「死を記憶せよ」などと訳され、芸術作品のモチーフとして広く使われる。 京都学派の哲学者として知られる田辺元は最晩年に「死の哲学(死の弁証法)」と呼ばれる哲学を構想した。その哲学の概略を示すために発表された論文が「メメント モリ」と題されている。田辺はこの論文の中で現代を「死の時代」と規定した。近代人が生きることの快楽と喜びを無反省に追求し続けた結果、生を豊かにするはずの科学技術が却って人間の生を脅かすという自己矛盾的事態を招来し、現代人をニヒリズムに追い込んだというのである。田辺はこの窮状を打破するために、メメント・モリの戒告(「死を忘れるな」)に立ち返るべきだと主張する[1]。  


「世界中に存在している人が死ぬ割合はどのくらい?」 


そう問われたらなんと答えますか?

半分くらい?
もっと多い?

答えは100%ですね。

人は、いや、生き物はすべてみんないつか死ぬのです。
その事実はみんなが知っているはずなのに、誰一人として自分のこととは思えない。
誰一人として、は言い過ぎましたが、でもわかっていても自分だけは死なないのではないか?と考えてしまうし、そう思いたいのではありませんか?

若い自分から死を意識している人がいるとすれば、哲学者かかなり屈折した人でしょう。
ところが親や身近な知人が逝き、自分自身も歳をとってくると、どんどん死が身近に感じられるようになります。

60歳を過ぎると自分の親がいくつで亡くなったか、
現在の平均寿命は何歳かなどと調べ、その年齢までを指折り数えてしまいます。
あと何回桜が見られるだろう? 
あと何回お節料理が食べられるのだろう? 
そんなことを考えてしまうのですが、それでもまだ自分が死ぬその時を想像できません。

それはたぶん、そんなことを考えたり想像してもどうしようもないからです。
もし、なんとか自分の死ぬ姿を想像できたとしても、
それは決して喜ばしいものではありませんね。
悲しく、寂しくなってしまうだけです。

メメント・モリ。

自分がいつか死ぬことを理解しても、それほど悲しいという感情はわいてきません。
むしろ、その時がくるまでにしたいことを考えはじめ、残りの人生をどう過ごそうかとか、人によっては今際の床で言うべき最後の言葉を決めておこうと思ったり、つまり、「死に方」と言うよりは、「死ぬまでの生き方」に向かい合うようになるのです。
それこそが、memento moriという言葉の真意なのかも知れません。

 

2017年9月12日火曜日

自己不一致という哀しみ。

entry #16
<サッドマネージメント塾-第16夜>

日本における心理カウンセリングの父と呼ばれているカール・ロジャース(Carl Ransom Rogers, 1902 - 1987)の言葉で、「自己一致(congruence)」という考え方があります。これは、カウンセラーにとって重要な3つの基本的態度の一番目に掲げられているものです。

自己一致とは、自分の内面にあるものと、外に向けて体現しているものが一致しているということです。言い換えると、内も外も一致してありのままの自分であるということ。カウンセリングするものにとって、ここに矛盾点があってはいけないとロジャースは説いています。

ここでは、カウンセリングの話をするわけではないので、ロジャースの話はここまでとしておきますが、自己一致転じて自己不一致(incongruence)という問題について考えてみました。

自己不一致とは、自己一致の逆、つまり、自分の内面と体現するものが一致していないということです。もう少し かみくだいてみましょう。

自分の内面で感じていることとは、たとえば

・自分はどういう人間か
・何をしたいと思っているのか
・誰のことが好きで、誰のことは嫌だと思っているのか
・どんな夢を描いているのか
・どうなりたいと思っているのか
・どんな人間になりたいのか

思索の数だけ、あるいは感じているだけ、さまざまな数え切れない内面があると思います。
ところが、その自己の内面を自分自身では認識できていないことがあります。

普段、そんなに自分の内面について深く考えたりしていないでしょうし、なんとなく好感を持っている相手のことをどこまで好きかなんて意識していないこともあるでしょう。
自己認識ですらそういうことですから、その内面がまっすぐに行動や言動に現れていないことだってあるでしょう。

それこそ、「ありのままの自分」で生きていて、内面と体現しているものがほとんど一致しているというまっすぐな人もいることでしょう。しかし、私たちは自分で思っていることを実現するために行動しているつもりですし、実際にはそうはなっていないとしても、自分ではそうできていると信じているのではないでしょうか。

さて、ここからが本題ですが、悲しみは喪失感によって引き起こされると書いてきました。喪失感とは、大切な人や大切な何かを失うということです。

この、大切な人や何かは、自分の内面でそう思っている、信じている事柄です。
大切だと思っているからこそ、その人やものを守り育み、愛しているのですよね。
ところが、何者かによってそれが阻害されてしまう。剥奪されてしまう。
自分の内面にあるものを実現して一致している外側の環境が壊されてしまう、
つまり自己一致している事柄が無理やり不一致状態にされてしまうわけです。

わかりやすく言えば、「こうでありたい」と思っているのに、自分の行動とは関係ないなんらかの外的要因によって、そうではない状態になってしまった! ということですね。

そのような境遇に置かれてしまった人間は、落ち込んで悲しみに襲われるのではないでしょうか。悲しみよりも怒りを覚える人もいるかもしれません。しかし怒りに満ちた人も、いくら怒ってもどうしようもないことがわかると、やがて悲しみの淵に立たされることになるのです。

思い出してみましょう。
怒りを感じるのはどんな時か。
悲しみに満ちるのはどんな時か。

およそ、自分の望みが、望みとまでいかなくても「こうあってほしい、こうあるべき」と思っていたことが実現できなかった、あるいは絶たれてしまった時ではないですか?

死別も喪失も、それによって自分の内面で描いていたことが、実現できなくなるから哀しみにつながる。すべての悲しみは、このような自己不一致によるものであると思うのですが、違うでしょうか?






2017年9月10日日曜日

悲しみはいくつある?〜喪失から生まれる9つの感情。

entry #15
<サッドマネージメント塾-第15夜>

悲しみの対象、癒しを考える上で、もう少し「悲しみ」について考察が必要です。
すでにentry#4では「悲しみを引き起こすもの。」について、悲しみの原因には、"死別""喪失""絶望"の、大きく3つが考えられると書きました。

死別は、愛する人を失うことですから、喪失に含まれます。さらに、喪失にすら至らない喪失、つまり得られないということもありますね。永遠の片想いとか、子供ができないとか、お金が手に入らないとか。

絶望についても、夢や希望、生き甲斐、自分の存在意義、尊厳、生命、命より大切なもの、そんなものを失って、もはやどうしようもない深い闇に落ち込んだときに生じるとすれば、これもまた大きく言えば喪失によるもにです。

まとめると、悲しみは、大切な何かを失ってしまったとき、あるいは大切な何かが得られなかったときの感情ということです。

では、悲しみにはどんな種類があるでしょうか。

◾️喪失感 死別や破産、形あるものの喪失
大切な人や財産、大切にしている事柄など、主には形あるものを失ったときに感じる言いようのない根本的な哀しみ。

◾️孤独感 人間関係、社会関係の喪失
この世にたった一人孤立している、友人どころか知人も仲間も、助けてくれる人も理解してくれる人もいないという悲しみ。

◾️寂寥感 人間関係や心の拠り所の喪失
仲間がいないわけではないが、どうせ理解されない、孤独感とまでもいかない寂しさ。荒地や海などの心象風景によってさえ呼び起こされる状態のときの感情。

◾️不信感   裏切りや疑惑による信頼関係の喪失
信じていた人に裏切られた、裏切られるかもしれないと思うときに感じる喪失感。

◾️疎外感   居場所や存在感の喪失
自分では孤立しているつもりはないのに、周囲から居場所を奪われ、存在を否定されたときの感情。

◾️非承認感   承認欲求が叶わないことによる自尊心・プライドの喪失
誰かに認められたい、わかってもらいたい、自己の能力や場合によっては存在そのものを認めて欲しいという承認欲求が叶わないときにわき起こる悲しみ。

◾️挫折感   自己の価値や存在感の喪失、自己崩壊感
夢や望みが断たれ、自分の価値を低く見たり、自分の存在を否定している状態の感情。

◾️虚無感・空虚感   絶望に至る自己の喪失
挫折や喪失をきっかけに、もう何もかもが空っぽになってしまった、虚しいと思う絶望一歩手前の感情。

◾️絶望感 夢や希望、生き甲斐、存在意義など、自己の喪失
この世のすべてに意味を見出せなくなってしまった、死に至る感情。通常は喪失感に由来することが多いが、哲学的な形而上の思惑に起因する場合もある。

どうでしょう。重複する箇所もあるかもしれません。上記に含まれない種類の悲しみが見つかったら、コメント欄で教えてください。


実はもうひとつ、「自己不一致による悲しみ」についても思い至ったのですが、これはすべてを包括するものとして、別枠にしました。詳しくは次のエントリーに書きますが、上にまとめた悲しみは、どの種類のものもすべて、理想と現実、内面と外面、自分の中で一致していないことが引き起こす感情だと思うからです。


2017年9月1日金曜日

絶望の学習〜Learned Helplessness

entry #14
<サッドマネージメント塾-第14夜>

ケージに入れた犬に軽い電気ショック(嫌悪刺激)を与え、ある行動(頭を動かすなど)をすると電気が停止することを学習させる。

次には、同じ電気ショックを与え、今度は何をしても電気は停止しない。

大雑把な言い方ですが、かつてアメリカでこんな実験が行われました。

今なら「動物虐待だ!」なんて言われそうですが、科学のために動物が犠牲になることも往往にしてあるのです。

行動心理学の動物実験で、有名なものがいくつかあるのですが、その中でもこの実験は、私にとって衝撃的であり、印象的なものでした。

これは、Learned Helplessness(絶望の学習)と呼ばれていて、犬が「何をしても仕方がない」ことを学習してしまったという実験です。

何をしても仕方ない、意味がない・・・これってやっぱり絶望状態ですよね。

私たちも、日常生活の中で、よかれと思ってやったことがダメ、

何をしてもうまくいかない、

「鈍すりゃ貧する、藁打ちゃ手打つ、便所入ったら人が入っとる・・・」

これは上方落語米朝師匠の一説ですが・・・(笑)

そんな状況が続いたら、

「もう知らん!どうにでもなれ!」

という絶望状態になってしまいます。

この実験の話をしたのは、絶望あるいは無力感というものが、科学的に実証されているということが言いたかったのです。

私たちは、日頃なんどもこのような絶望感や無力感に襲われます。
絶望は哀しみよりもひどい状態だと思います。
もはや哀しみさえ感じないのですから。

しかし、この状態は当事者にだけ訪れるものではなくて、同じ状況に置かれたら誰だってそうなる、そしてそれは物理的な、再現性のある現象であることを理解していたらどうでしょう。

絶望に陥った人間は、暗く深い穴の中に落ち込んだような気持ちになり、この世の中で自分だけがこんな辛い状況に陥っているのだという孤独感を伴います。

そのときに、いやそうじゃない、それはたまたまそんな状況が重なって、その反応として誰でも同じ心理になり、「何をしても仕方ない」という考えを持つに至るのだ。

そう思えば少し軽減されませんか?

この辛い状況をもたらしたものは偶然性のもので、その偶然起きた事柄がなくなりさえすれば、絶望する必要もない、また、次には必ず違う状況が訪れるのだ、そう考えを改めれば、再び希望が見えてくるのではないでしょうか?

こうした絶望に固執した考えをシフトチェンジすること、それが今でいう認知行動療法なのです。




■以下、Wikipediaから抜粋

[Learned Helplessness]

1967年、アメリカの心理学者マーティン・セリグマンとマイヤーが犬を用いて行ったオペラント心理学実験があります。
心理学者のマーティン・セリグマンが、1960年代にリチャード・ソロモンの元で学生生活をしていた時期に思いつき、それ以来10年間近くの研究をもとに発表した。抵抗や回避の困難なストレスと抑圧の下に置かれた犬は、その状況から「何をしても意味がない」ということを学習し、逃れようとする努力すら行わなくなるというものである。
学習性無力感は、1967年にセリグマンとマイヤーが犬に対して条件付けを用いて行った研究[7]によって提唱された[3]。また別の1967年の論文の[8]、実験の内容は以下である[5]
犬を以下の3つの群に分け、オペラント条件づけに従って、電撃回避学習を課した。
  • 頭部を動かすと電撃を停止できる群。
  • 第一統制群:パートナーが受ける電撃を同様に受ける。
  • 第二統制群:電撃を受けない。
第一統制群の、自分では電撃を停止できない犬は、回避行動をとらず、電撃を受け続けた。こうした実験によって非随伴的な刺激が与えられる環境によって、何をやっても無駄だ、統制不能だという認知を形成した場合に、学習に基づく無力感が生じるとし、学習性無力感が提唱されたのである[5]
続いて、サカナ、ネズミ、ネコ、サル、ヒトでも、適応的な反応を起こさなくすることが、実験にて観察され、その学習性無力感の症状が、うつ病の症状に類似しているとされた[5]
セリグマンは、1975年には、人間も加えた研究を加えて、うつ病の無力感モデルの理論的な基礎を形成し、1980年代にはその治療や予防に関しても、学習性無力感とうつ病とで比較し、それら二項間における内容はほぼ同様である[6]
1990年代には、セリグマンは楽観主義についてより多く執筆した[9]。セリグマンは、2000年ごろにはポジティブ心理学を提唱する。

治療[編集]

セリグマンらは、学習性無力感における「反応しても無駄であるという信念」を変える方法に認知行動療法を挙げている[11]。人間で効果が確認されている方法は、自尊心を回復したり、随伴性を示したり、失敗は別の理由で起こったと説明し励ましたりすることである[12]

2017年8月29日火曜日

死に至る病

entry #13
<サッドマネージメント塾-第13夜>

「死に至る病」とは、デンマークの哲学者セーレン・キェルケゴール(1813年5月5日 - 1855年11月11日)が著した哲学書のタイトルです。副題は「教化と覚醒のためのキリスト教的、心理学的論述」です。

私ははるか昔、高校生の頃このタイトルと出会い、深く感銘しました。
死に至る病って……どういう病なんだろう?
この訳本を購入した覚えはありますが、この方読んだ記憶はございません。
が、なんとなくタイトルだけでも内容の一部は察することができそうです。

ウィキペディアによると……以下抜粋。

   ★  ★  ★

死に至る病 - Wikipedia

出だしは新約聖書『ヨハネによる福音書』第11章4節で引用されている「この病は死に至らず」の話を紹介する文章から始まり、「死に至る病とは絶望である」と「絶望とは罪である」の二部で構成される。
本書でキェルケゴールは、死に至らない病が希望に繋がる事に対して死に至る病は絶望であると述べ[4]、絶望とは自己の喪失であるとも述べている[6]。しかし、この自己の喪失は自己のみならずとの関係を喪失した事となり[11]、絶望はであるとしている。そして人間は真のキリスト教徒ではない限り、自分自身が絶望について意識している、していないに関わらず実は人間は絶望しているのだとと説いている[4]
その絶望は、本来の自己の姿を知らない無自覚の状態から始まり[12]、更に絶望が深まると「真に自己」であろうとするか否かと言った自覚的な絶望に至る。絶望が絶望を呼び、むしろ絶望の深化が「真の自己」に至る道であるとしている。
第二部では絶望は罪と説いており、この病の対処法としてキリスト教の信仰を挙げ、神の前に自己を捨てることが信仰であり[10]、病の回復に繋がるとしている[6]
また、人間が起こす躓きは大きく三段階に分けられるとしており、
  • 信じもしないが判断も下されない段階
  • キリストを無視し得ないが、信じることもできない段階
  • キリストを否認する段階
キェルケゴールはこの三段階が決定的な死に至る病であると述べている[9]

   ★  ★  ★

ウィキでさえ、ちょっと読むのが面倒臭い記述。
ましてこの哲学書の読破は。

キリスト教的部分は、教徒でない私にはまったく理解不能ですが、死に至る病は絶望であるという部分は文字どおりに理解できるし、まったくその通りではないかと信じます。

パンドラの箱には希望が残っていたという逸話が示すように、人間が生存するために必要なのは、希望。その希望をも逸してしまったときに絶望が訪れる。
絶望は、人が生きていく力を失わせてしまう。
絶望することによって、生きる価値も失われてしまう。
生きる価値を失ってしまうと、もはや死んでいるのと同じ。
身体はまだ生きていても、生きる屍になってしまった人間にとって、そのまま生きているのも、肉体を自ら滅ぼしてしまうのも変わりがないように感じてしまう。
こうして死に至るのだ、と勝手に解釈しているのだが、違うでしょうか?

低空飛行者は2度死ぬ。

entry #12
<サッドマネージメント塾-第12夜>

鬱に陥る理由はさまざまです。
そもそも気分が低い人は、ほんの些細な出来事でひどく落ち込んでしまいます。
普段はとても元気なのに、大きな悲しみに遭遇して鬱状態になる場合もあります。
それ以外にも、なにという理由もなく、社会情勢や景気、自分が置かれている状況など、普段から悶々とした人生を生き、そうしたすべての要素が折り重なって鬱状態に落ち込んでいく人もいます。

鬱状態のことを「低空飛行」と表現した精神科の医師がいました。
うまい表現だと思います。私もこの言い方をよく使います。
低空飛行でも、墜落しない限りは生きていけます。
ただ、地面が近いので、墜落するとなるとあっという間に地面に激突してしまいます。
だから、地面にぶつからないように注意して飛行を続けることが重要です。

高度の高い状態から低空へと降下していく、つまり鬱状態に向かって真っ逆さまに下降しているとき、勢い余って地面に激突する確度が高まります。
これがいわゆる自死につながる第一の危機です。
危ういところで止まって、なんとか低空飛行でもいいから安定に持ち込めれば、しばらくは安心です。

ところが、この低空飛行から高度を上げていくときに、第二の危機が訪れるかもしれません。
とりわけ、静かな安定した状態の鬱から徐々に高度を上げていくのではなく、いきなり躁状態になるような人は危険だと聞きます。
鬱とはうって変わってなんでもできるようなハイな気分が訪れると、勢い余って飛び降りてしまうケースがあるそうです。
静かな鬱からの脱却時でも、上がりそうになってからまた操縦桿を下げてしまい、不安定な状況から墜落してしまうという感じでしょう。

低空飛行に向かうとき、そして安定した低空飛行から抜け出すとき、
人は2度危機に直面しているということを留意しておいてください。


2017年8月27日日曜日

哀しみからの立ち直りに潜む2つの危機。

entry #11

<サッドマネージメント塾-第11夜>

悲しみの淵に立たされたときから立ち直りまでの間に何らかの危機が潜んでいる。
前エントリの最後にそのように書きました。

 ①悲しい事実の否定
 ②悲しい事実に対する怒り
 ③事実を受け入れる前の鬱状態
 ④事実の受容
 ⑤立ち直り

いったい、この心理プロセスのどこに、どのような危機が潜んでいるのでしょうか?
ひとつは怒りの中に潜んでいます。
悲しみの果てに生じる怒りは、おおむね理不尽な怒りです。

こんな悲しい目に遭わせたのは誰なんだ、誰のせいでこんなことになったのだ?
実際に起きた事実とは違う誰かに向けられる怒り。
医師であったり、失われた人の周囲にいる人であったり、あるいは家族であったり。
その誰かの責任ではないにもかかわらず、哀しみに暮れる者は理不尽にも怒りの矛先を彼らに向けてしまうのです。

怒りのあまりに矛先が向けられた人物を殺めてしまう……そこまでサスペンス劇場的なことは滅多にないとしても、理不尽な怒りは後に遺恨を残す事態を引き起こすかもしれません。
人間関係に影響したり、家族関係に亀裂を生じさせたり、くらいのことはありうるでしょう。

さらに問題なのはもう一つの危機。それは自死の危機です。
事実を受け入れた結果、ひどい鬱状態に陥る人もいます。
鬱状態イコール自殺というわけではないのですが、大切な人の死があまりにも受け入れがたいものであったとき、しかしそれを受け入れざるを得ないとわかったとき、そこに現れる鬱は、通常のストレスから生じたものとは比べ物にならないほど深く大きく計り知れない虚無感をもたらすかもしれません。

こうした生への虚しさは自死に繋がる可能性は低くないでしょう。
また、自死の危機は鬱状態のときのみならず、そこから立ち直りをみせるタイミングでも訪れることがあるのです。


悲しみの心理プロセスの理解に意味はあるのか?

entry#10
<サッドマネージメント塾-第10夜>

少し堅い感じのエントリが続きました。
キュープラー・ロスによる「自分の死を受容する5つのプロセス」と、このアイデアをベースにしたと思われる「悲嘆に遭遇したときの心理プロセス」についての2パターンのプロセス。

いずれの場合も大きく分けると、
 ①悲しい事実の否定
 ②悲しい事実に対する怒り
 ③事実を受け入れる前の鬱状態
 ④事実の受容
 ⑤立ち直り

という5つの段階に整理できるのではないでしょうか。

なぜ、このような心理プロセスについての記述が必要なのでしょうか?
哀しい事実と遭遇して理性的でいられる人は少ないでしょう。
混乱し、我を忘れ、どうしていいか途方に暮れた状態で、まともな思考ができなくなってしまう人もいることでしょう。

なぜこんなに深い悲しみの淵にいるのか、
なぜわけのわからない怒りや憎しみがわいてくるのか、
どうしてなにもかもがどうでもよくなってしまうのか。

悲しみに暮れている自分の中にわき起こるさまざまな感情によって、
また新たな混乱に巻き込まれていくかもしれません。
しかし、そうした複雑な感情は決しておかしなことではない、誰にでも普通に起きることなのだ、それを知っておくことが救いになるかもしれません。
あるいは悲しみにくれる人の傍にいる人にとっても、このような心理プロセスが訪れているのだと分かっていれば、心配も半減できるかもしれません。

悲しみの真ん中にいる本人であれ、その傍にいる友人であれ、
悲しみからの回復にはプロセスが必要なのだと知っておくことによって、何か対処の仕方が見つかるかもしれません。

否定や怒り、うつ状態、受容、立ち直りという各プロセスに必要な時間は、人によって、あるいは起きてしまった事実の深さによって短かったり永遠だったりもするでしょう。
それでもいつかは立ち直りが訪れる。

しかし、ここで考えておくべきことは、どこかしらに危機が潜んでいるということです。
どこに、どんな危機が潜んでいるのか?
それは次エントリに譲ることにします。


12段階の悲嘆のプロセス。

entry#9
<サッドマネージメント塾-第9夜>

前エントリでは、平山博士が唱えた悲嘆のプロセス4段階を記しましたが、さらに悲嘆のプロセスを12段階でまとめた学者もいます。生死学を専門とする上智大学名誉教授の哲学者アルフォンス・デーケン博士です。(哲学者アルフォンス・デーケン「よく生き よく笑い よき死と出会う」新潮社 20039月発行)

以下、哲学者アルフォンス・デーケン氏の著作「よく生き よく笑い よき死と出会う」から抜粋された記事を参考に記述しました。


(1)   精神的打撃と麻痺状態(shock and numbness
 愛する人の死に出会うと、その上、その死が唐突であればあるほど、そのショックは大きすぎて、一時的に現実感覚が麻痺状態に陥ります。「頭の中が真っ白になっ て何もわからなくなった」と言われる状態です。これはいわば一時的な情報遮断状態であり、心身のショックを少しでも和らげるために起きる、生体の本能的な防衛機制といわれています。 

 普段はとてもしっかりしていた人がこのような真っ白な状態になったからといって精神的におかしくなったというわけではありません。一過性の現象であり、心配する必要はありませんが、この状態が長引けば問題になってきます。


(2)   否認(denial
 愛する人の死を感情的に受け入れられないばかりか、理性としてもその人の死という事実を否定しようとします。死ぬはずはない、何かの間違いだ、どこかで生きているのだ、そのうち元気な姿を見せるはずだ……などと、思い込みます。

 この現象は、決して頭がおかしくなり、混乱しているわけではありません。相手の死を 感情と理性の両方で受け入れられない時期があることを理解しなければなりません。


(3)   パニック(panic
 身近な人の死に直面した恐怖から、極度のパニック状態に陥ることがあります。これもしばしば見られる現象ですが、一過性であれば問題はありません。


(4)   怒りと不当感(anger and the feeling of injustice
 やがてショックが収まると、悲しみと同時に不当な苦しみを負わされたという激しい怒りに変わります。交通事故や急病による突然の死の後では、この感情が 強く現れます。交通事故などのように、愛する人の命を奪った相手がいる場合には、加害者に対する怒りがいっそう強くなります。

 また、病院で亡くなったりすると、その怒りが看護婦や医者に向かうこともあります。いずれにしても、なぜ自分だけがこんな不幸に遭わなければならないのかという不当感がつきまとい、 自分にひどい仕打ちを与えた運命や神に対する怒りが表出されることが多いのです。

 逆に、この怒りの感情を外に向かって率直にはき出せず、いつまでも怒りを心の中に留めていると、知らずしらずのうちに心身の健康を損ねてしまいます。このような場合、無理に怒りの感情を押し殺さず、上手に発散させることが重要になります。

 また、周囲の人も、悲嘆のプロセスの初期に、怒りや不当感を強く感じる時期があることを理解しておかなければなりません。この怒りの感情表出に対して、周囲の人が反応してしまうと、本人はますますやり場のない怒りの感情を心の内にいだくことになるからです。


(5)   敵意とルサンチマン(うらみ)(hostility and resentment
 周囲の人々や亡くなった人に対して、敵意という形でやり場のない感情をぶつけてきます。特に、最後まで故人のそばにいた医療関係者がその対象となることが多いようです。

 これは、日常的に患者の死を扱う医療者側と、かけがえのない肉親の死に動転している遺族側との間の感情の行き違いによる場合もあります。最近は、医療事故などが問題となり、医療者側と遺族側との間に信頼関係がしっかり形成されていないと、とりわけ医療者側に不信や敵意が生じやすいようです。

 また、時には故人に敵意が向けられる場合があります。本人の不注意や不摂生が、直接的にか間接的にか死亡原因となった場合には、死んだ人の無責任を責めるという形でやり場のない敵意を表現します。


(6)   罪意識(guilt feeling
 悲嘆のプロセスが進むと、自分の過去の行いを悔やみ、自分を責めます。あの人が生きているうちに、もっとこうしてあげればよかったとか、逆に、あの時あんなことをしなければもっと元気でいたかもしれないなどと考えて、後悔の念にさいなまれます。


(7)   空想形成、幻想
 空想の中で、亡くなった人がまだ生きているかのように思いこみ、実生活でもそのように振る舞います。たとえば、夫を亡くした奥さんが、夫が亡くなって1 年以上も経っているのに、毎晩夫の分まで食事を作り、食卓に並べてじっと待っていたりします。また、子供を亡くした両親が、亡くなった子供の部屋を片づけられず、いつ帰ってきてもすぐ着替えられるようにパジャマまで揃えて、何年もそのままにしているということもあります。


(8)   孤独感と抑鬱
 葬儀などの慌ただしさが一段落して、落ち着いてくると、紛らわしようのない独りぼっちの寂しさがひしひしと身に迫ってきます。人によっては、気分が沈んで 引きこもってしまったり、だんだん人間嫌いになったりします。これもたいていの人が通らなければならない重要な悲嘆のプロセスです。

 しかし、この時期が長 引いてしまうと、健康を損なってしまいます。周囲の暖かい援助が必要で、早くこの時期を乗り越えることが大切です。


(9)   精神的混乱とアパシー
 愛する人を失った空虚さから生活目標を見失い、どうしていいかわからなくなり、全くやる気をなくした状態に陥ります。これも正常な悲嘆のプロセスの一部で すが、この状態が長引くようだと健康を損ねてしまいます。その場合には、精神科医やカウンセラーなどの専門家の援助が必要となります。


(10) あきらめ―受容
 日本語の「あきらめる」という言葉には、「明らかにする」という意味があり、この段階になると、愛する人はもうこの世にはいないというつらい現実を「あきらか」に見つめて、相手の死を受け入れようとする努力が始まります。受容というのは、ただ運命に押し流されるのではなく、事実を積極的に受け入れていこう とすることです。


(11) 新しい希望
 ユーモアと笑いが再びよみがえってきて、次の新しい生活への一歩を踏み出そうという希望が生まれます。健康的な日常生活を取り返し、愛する人の死を現実の生活から切り離すことが出来るようになります。


(12) 立ち直りの段階
 悲嘆のプロセスを乗り越えるというのは、愛する人を失う以前の自分に戻ることではなく、苦痛に満ちた喪失体験を通じて新しいアイデンティティを獲得することを意味しています。それにより、悲しみを乗り越え、より成熟した人間へと成長することが出来るのです。

(補足)悲嘆を体験する人がすべてこれらの12段階を通るわけでもなく、また、必ずしもこの順序通りに進行するとは限りません。時に、複数の段階が重なって現れることもあり、だいたい立ち直るまで最低1年くらいはかかります。



 いかがでしたか。先のキュープラー・ロスの5つのプロセスよりもさらに細やかなプロセスの記述は、非常にわかりやすく、そのような段階があるだろうことに共感を覚えます。いずれにしても、大きな哀しみと遭遇してしまった人間は、我を忘れ、否定にかかり、やがて怒りを感じ、このようなプロセスを経て乗り越えていくのだという流れには共通したものがあるようです。

悲嘆における4つのプロセス。

entry#8
<サッドマネージメント塾-第8夜>

グリーフワークという言葉があります。
グリーフ(grief)とは、死別などによる深い悲しみ・悲嘆、後悔、絶望と訳されています。人の生においてかけがえのない大切な人や時間を失ったときの、深い悲しみを意味します。

このグリーフ=悲嘆に陥ったときの人間心理を、様々な学者が分析しています。
主には、先にエントリしたキューブラー・ロスの死を受容するプロセスと同様な考え方に立しているようです。

たとえば、精神科医でクリスチャンでもある故平山正実博士は、近しい者と死別した時に現れる悲嘆のプロセスを4段階に整理しています。
また、これらの段階は1から順番ということでもなく、入れ替わって出現することもあるといいます。

悲嘆のプロセス4段階 

1.ショック(ストレス)

感覚が麻痺し、涙も出ない、感情が湧かない、足が地につかない状態。
何も考えられず、混乱した精神状態の中で何にも集中できない。
食べる、眠るなどの、簡単な日常生活のことさえもできなくなってしまう。

2.怒りの段階(防衛的退行)

悲しみ、罪責感、怒り、責任転嫁が現れる。
深い悲しみの中で、故人や周囲の人を責め、そう考えてしまう自分自身をも責める気持ちが混在する。
故人との思い出にふけり、現実を容認できない。
夢想や空想と現実の区別がつかなくなっている。

3.抑うつの段階(承認)


絶望感、深い抑鬱、空虚感、無表情、希死念慮。
周囲のすべてのものへの関心がなくなり、自分を価値のない人間だと感じる。
適応能力が欠損し、外出せず、引きこもり状態になる。

4.立ち直りの段階(適応と変化)

徐すこしづつエネルギーが湧いて、新しい希望が見えはじめる。
周囲との関わりをもっと大切にしようと考える。

故人の死の現実を認めはじめる段階。


以上、キューブラー・ロスが提唱した「自己の死を受け入れる5つのプロセス」と非常に近しい内容のものですね。
こうしたいくつかの段階が順不同で現れて、最終的には4の立ち直り段階に到達するという説です。



2017年8月9日水曜日

死を受容する人の5つのプロセス。

entry#7
<サッドマネージメント塾-第7夜>

人間にとって最大の危機は自分の死であり、それを知ることは最大の悲しみだと言って間違いないでしょう。
本エントリーでは、自己の死について、それを受け入れるプロセスというものについて記します。

死生学(サナトロジー)で有名な精神科医キューブラー・ロス博士は、癌末期患者など何千人もの死にゆく人々にインタビューを行い、その考察を記録した著作「死ぬ瞬間~死とその過程について」において、自ら考案した死を受け入れる5段階のプロセスキューブラー=ロスモデル」を提唱しています。

1.否認・隔離:自分が死ぬということは嘘ではないのかと疑う段階。
自らの死を宣告されると、一時的なショック状態になり、やがて最初の麻痺したような感覚が薄れて落ち着きを取り戻す頃には、「自分であるはずがない」と思うようになる。直視できない悲しい事実から身を守るための、一種の自己防衛のメカニズムだといえる。

2.怒りなぜ自分が死ななければならないのかという怒りを周囲に向ける段階。
自己の死を認めたくないという否認の感情を持ち続けることができなくなると、今度は神や他の人間に対して、怒りや恨み、憤りという感情が現れる。この怒りはあらゆる方向にあたりかまわず見当違いに向けられ、周囲の者は対応に苦慮する。

3.取引:なんとか死なずにすむように取引を試みる段階。何かにすがろうという心理状態。
「避けられない結果」を先に延ばすべくなんとか交渉しようとする段階に入っていく。経験的に、善行を行えば報われるかもしれないということから、良い行いと引き換えに延命を願う。ほとんどの場合、取引相手は神であり、その内容は秘密にされる。

4.抑うつなにもできなくなる段階。
病状が進んで、もはや事実を否定できなくなる。健康を失い、経済においても財産を失い、職を失い、これから家族さえも別れなければならない現実によって、抑鬱状態に陥る。この抑鬱には、喪失した事柄に反応して起きるものと、これからさらに失っていく事柄に準備するためのものがある。喪失したものに反応しての抑鬱は、喪失感を和らげてあげることによって緩和されるが、これから失うであろうものに準備するための抑鬱は、励ましようがないし、励ましてはいけない。間違いなく愛する者を失うことは避けられないのに、哀しむなと言うことには意味がない。むしろ、哀しむことを許し、共有することによって死ぬ準備の覚悟が定まっていく。

5.受容最終的に自分が死に行くことを受け入れる段階である。
さまざまな感情を持つ段階を過ぎて、やがて最後の時が近づくのを静観するようになる。次第に長い時間眠っていたいと思うようになる。この眠りは、抑鬱や逃避のためでも、諦念や絶望による放棄のためでもなく、まさに最後の休息に近いもの。感情が欠落した状態で、周りに対する関心も薄れていく。ただ、誰かそばにいてくれて、手の一つでも握ってもらうことによって、最後までひとりぼっちではないと感じて慰められる。

以上、キューブラー・ロスの著作「死ぬ瞬間」からの要約的抜粋です。

エリザベス・キューブラー=ロス
独:Elisabeth Kübler-Ross、1926年7月8日 - 2004年8月24日
死と死ぬことについての画期的な本(『死ぬ瞬間』,1969年)の著者として知られる精神科医
著書において、彼女は初めて今日では「死の受容のプロセス」と呼ばれている「キューブラー=ロスモデル」を提唱している。まさに死の間際にある患者とのかかわりや悲哀(Grief)の考察や悲哀の仕事(Grief work)についての先駆的な業績で知られる。





2017年8月4日金曜日

悲しみをうまく昇華させる方法。

entry #6
<サッドマネージメント塾-第6夜>

悲しみと出会ってしまったとき、その悲しみから逃れる方法はあるのでしょうか?

entry #1で書いたように、泣くことはひとつの対処方法です。
思い切り泣くことによって、哀しみの気持ちが流れ落ちて、上手く昇華していき、泣き終わった後には思いの外スッキリする、そういう経験は誰しもあることでしょう。

しかしそれでも悲しみが消え去るわけではありません。

”時間ぐすり”などと言いますが、時とともに悲しみの感情が薄れていくのを待つしかありません。
つまりそれは、忘却という記憶のメカニズムによるものです。

昨日も今日も、明日になっても、自分自身は変わらないと誰もが思っているでしょうが、
身体の細胞が日々入れ替わっていくように、人の心もまた少しずつ変化していきます。

悲しみは、哀しみに、愛しみに、かなしみに、カナシミに、ナシミ、シミに……

そうして、悲しい思い出に変化した記憶は、やがて懐かしいものへと変わっていくのですね。

この時間ぐすりの時間は、増やしたり早めたりすることはできませんが、効果を高める方法はあります。
忘却を早め、変化を早送りできるのです。
それはとても簡単なこと。
何かに熱中するのです。
熱中できる何かを見つけるのです。
我を忘れる、という言葉がありますが、そのくらい何かに熱中できれば、早い段階で哀しみは遠ざかっていることに気づきます。

なあんだ、そんなこと、言われなくても〜そう思われたかもわかりませんが、
つまり、そのくらい簡単で当たり前の方法が、悲しみを昇華させるよい方法なのですね。


悲しみからくる不都合なもの。

entry #5
<サッドマネージメント塾-第5夜>

悲しみは唐突にやってきます。

一年前はあんなに幸せだったのに。
先月はあんなに笑っていたのに。
昨日は元気に挨拶したのに。

突然の雨のように、予想外の嵐のように、
想定外の災害が訪れるように、悲しみも訪れるのです。

そのとき、人はどうなるのでしょうか。

胸の真ん中あたりでずーんと何かが引いていく感じ。
血管の中の液体がすーっと下がっていく感じ。
頭の仲が真っ白になって、意識が曖昧になる。

そして、
取り乱す。
うずくまる。
身体中が震える。
震えが止まらなくなる。
嗚咽。
泣く。
泣き叫ぶ。
喚く。
動き回る。
発作のような暴力。
意識を失う。
我を失う。
あるいは、押し黙ったまま塑像になる。

襲ってきた出来事の重さによって、当事者の性質によって、
悲しみの大きさは異なり、それがもたらす反応もさまざまでしょう。

しかし、どのような行動が現れようと、こころの中で起きている悲しみの種類はほとんど変わらないでしょう。
とにかくたった今まで保持していた幸福感が180度天地をひっくり返された気持ち。
平常だった血管の太さが変わり、血流の速度が早まり、脳細胞を結ぶシナプスが悲しみ独自の働きを始めます。
こころが縮こまると同時に身体も大きく変化してしまうのです。

そうした心身の変化に対処するために、様々な行動が表出するわけで、
哀しみ直後の行動は、人それぞれ、どのよう出会ってもいいのです。
その人個人の対処方法なのですから。

問題はそのあとです。
ひとしきり対処行動をとることによって、心と体が上手く折り合えばいいのですが、
時としていつまでも平常に戻れないこともあるのですね。

悲しみがもたらす不都合なものとは、悲しみの衝撃を上手く受け止められない、
一旦受け止めたつもりでも、そのあと折り合いがつかず、元の自分に戻れない。

こうした経過からこころの病気に陥ったり、身体に以上が生じたり、
その流れでより悪い事態が引き起こされたり、そうして事故や事件が起きてしまうのではないでしょうか。


2017年8月3日木曜日

悲しみを引き起こすもの。

entry #4
<サッドマネージメント塾-第4夜>

人生に悲しみはつきものだ。
誰が言ったわけではありませんが、まったくその通りだと思います。
人生の中で一度も悲しみを味わったことがないなんていう人が存在するのでしょうか?
この世に生を受けて生きていく限り、悲しみと出会ってしまうのは生き物の宿命です。

具体的に、「悲しみ」を誘発するのはどんなことなのでしょう。

まず、絶対に避けられないのが死別です。
親との死別。
子との死別。
親や子に準じる者、連合いや兄弟、友人、ペットとの死別。

次に考えられるのは喪失です。
喪失とは、いわばモノや事柄との死別。
命より大切な何かを失ってしまう。
家や土地、財産を失ってしまう。
長年かかって築きあげてきた地位を失う。
友の裏切り。
配偶者の裏切り。
夫婦や親友、親子関係など、人間関係の喪失。

そしてもっと深刻な悲しみを引き起こすのが絶望。
絶望とは「希望を失う」という意味ですので、上記「喪失」に含まれるものではありますが、とりわけ別項目にすべきほど重要なものです。
夢や希望の喪失。
病などによる自己の余命宣告。
上記なんらかを喪失したことによる絶望。
死への不安や恐怖による精神喪失。
形而上(哲学的)への執着が生む生への諦念。

今はこのくらいしか思い浮かびませんが、人間に悲しみをもたらすことは、他にもたくさんあるに違いありません。

大括りに書いてもこんな感じですから、小さな誘引まで細かく書き出すと、実にたくさんの哀しみ誘因がありそうです。

そして、これらのどれ一つをとっても違わないのは、
起きてしまった場合にはおそらく二度と取り戻せないし、
だからこそ、悲しみが誘発されるのだ、ということです。

さて、みなさん、こうした悲しみがやってきた時、あなたならどう向き合いますか?



哀しみにマネージメントは必要か?

entry #3
<サッドマネージメント塾-第3夜>

Anger Managementにインスパイアされて、Sad Managementなどと言いだしましたが、果たして、Sad(哀しみ・悲しみ)にマネージメントなど必要なのでしょうか?

怒りの場合、社会において、それが人を傷つける言動になったり、暴力を誘発させたり、ひどくなれば争いにまで発展する可能性があるわけで、そうしたことを防止する意味でも、怒りをコントロールする技は必要かもしれません。

ところが悲しみについてはどうでしょうか?

悲しみは誰かを傷つけるでしょうか。
いや、むしろ、悲しみは誰かから傷つけられた時に起きる感情です。
だから、外に向けてというよりは、自分自身を守るために哀しみをコントロールする術が必要なのかもしれません。

そして、悲しみは暴力や争いを引き起こすのでしょうか?
直接的にはそのようには結びつきません。
しかし、あまりにも深い悲しみに、心身ともに傷ついてしまった人間のこころは、
やがて怒りの炎へと変化してしまう可能性はあります。
シンプルに湧き起こった怒りよりも、悲しみ転じて燃え盛る怒りは、強烈なものになってしまう!というような物語はあるのではないですか?
物語的には復讐劇なんていうものがそれですね。
シェークスピアの「ハムレット」や、第88回アカデミー賞受賞の「レヴェ何と甦りし者」
は、悲しみの果てに復讐を遂げるお話です。

こう考えると、悲しみが暴力に直結するわけではありませんが、怒りの火種となる悲しみをマネージメントすることは必要なのかもしれません。

復讐劇なんて、話はいささか飛躍しましたが、人間にとって悲しみを抱くことは、なんらかマイナスの方向に転じてしまうことは想像するに難しくありません。

悲しみのあまり、会社に行けなくなってしまった。
悲しみのあまり、家族が崩壊してしまった。
悲しみのあまり、頭がおかしくなってしまった。
悲しみのあまり、性格が歪んでしまった。
悲しみのあまり、人生が狂ってしまった。
悲しみの果てに、身を投げてしまった。

想像の世界ではこのようなことが考えられますが、世の中で起きている様々な事件や悲劇の裏には、このようなことが結構あるのではないかと思います。
ということは、今は関係ないと思っている私にとって、他人事ではないような気がしてきます。

実際のところ、昨年私自身が体験したことですが、十四年間可愛がってきた愛犬を病気で亡くしました。
人でも動物でも、いつかは死んでしまうことがわかっていても、いざ死を迎えてしまうと、その悲しみははかり知れません。
直後には四六時中亡くした愛犬のことを想い、一年をすぎた今でも、折に触れて彼女のことを思い出しては当時の悲しみが舞い戻ってきます。
愛犬を亡くした悲しみですら、無気力や虚脱感でいっぱいになりました。

私の場合は徐々に立ち直ってきていますが、未だに犬を飼う気になれません。
私などと違ってもっと繊細な性格の人であれば、そのままこころの病に陥ってしまうこともあるかもしれません。

そうした場合にはメンタルケアが必要になるでしょう。

Sad Managementとは、こうした、悲しみに囚われた人を救済するためにあるべきもの、
私はそう考えます。


哀しみと悲しみについて。

entry #2
<サッドマネージメント塾-第2夜>

ブログタイトルは「悲しい・・・」ですが、本文では哀しいと書いたりしています。
はて、悲しみと哀しみは違うのでしょうか?
ググってみると、大辞林第三版では以下の通り。

悲しみ・哀しみ・愛しみ

① かなしむこと。 「 -に打ち沈む」 ② いとおしむこと。また、あわれむこと。 「祖子おやこの-深き事を知しめんが為也/今昔 4」
大辞林 第三版


つまり、悲しみも哀しみも、そして愛しみというものもあって、すべて同じ意味なのですね。

知恵袋さんの回答では、
「悲しみ」は「哀しみ」を含む「大きい語」とし、
「哀しみ」のほうは、より個人的で「センチメンタル(感傷的)」な思い入れを表現したいときに使われることが多い。
などと答えられています。

また、他のサイトでは、
「悲」は悲痛に通じ、広くかなしみ一般であり、
「哀」は死者に対する哀告の儀礼としています。

さらに、映画の邦題や、物語的には、一般的な「悲しみ」よりも何か意味ありげで目立つ「哀しみ」が使われることが多いようです。

ということで、基本的には悲しみも哀しみも同じ意味、
本ブログでは、タイトル通りに基本悲しいを使いますが、
時には哀しいの方で表現したりします。
でも、ニュアンスの違いだけで、基本的には同じ意味であると考えてくださいね。


涙の止め方。

entry #1
<サッドマネージメント塾-第1夜>

人は悲しくなると涙が出ます。
希には涙しない人もいますが。

子供が泣くと、泣いたらいかん! と大人は言います。
大人が泣いても、泣いたらダメ、泣かないで 、と周りの人は言います。

泣くのを止めようとするのは、つまり励ましの代替行為。
泣くのをやめたら、悲しみが消えるような気がするのですね。
これは、後でふれますが、あながち間違ってはいない。
それに、目の前の人の涙は、伝染して、こちらまで辛くなるから、やめてもらいたいという気持ちも働くのではないでしょうか?

さて、このように、悲しいときに流れる涙は良くないものでしょうか?

no。そんなことはない。

あなたもきっと、そう思いますよね。

痛みが、体を傷つけるものから守るためのアテンションであるように、
涙は、おそらく、傷ついたこころを癒すための緩和剤なのだと思います。

悲しいなら、泣きなさい。
もっと泣いて、泣いて。
思う存分に泣くんですよ。

私はこれが本当の慰めだと考えます。

いくら泣いていても、泣き止まない人はいない。
涙が枯れるまで、と言いますが、本当に体液の全てが涙に変わって枯れ果ててしまった人の話は聞いたことがありません。

涙は、いつか止まり、気分はいくぶんすっきりとする。
涙には浄化作用がある、そういう人もいますね。

泣きたいときには思う存分に泣く。


ブログタイトル通り、
Sad  anagementの第一歩はこれです。

ところで、泣くのをやめさせることへの一理について。

人は、悲しいから泣くのでしょうか。
それとも、涙が出るから悲しくなるのでしょうか。

そりゃあ前者、悲しいから涙が出るに決まっている。
ほとんどの人がそう思うでしょう。

ところが、そうでもないらしいです。

認知心理学では、涙が出ることによって悲しみの感情が現れる、ということも実証されているそうです(ジェームズ・ランゲ説)。

肉体の動きによって、感情を制御することができるのです。
だから、涙を止めることができれば、悲しみも減ります。

たとえば、泣いている人をくすぐったり、ぴょんぴょん跳ねさせたり、
とにかく泣けない状態にしてしまい、涙が止まると、少なくとも一時的には悲しみの表情は薄れます。
泣きながらくすぐられている、泣きながら飛び跳ねている、
そんな人は見たことがありませんね。

ただし、一時的に涙を止めて、悲しみを中断できたとしても、
悲しみはまた込み上げてきて、涙が溢れてきます。

やはり、涙が自然に止まるまで、枯れ果てるまで、泣いて昇華させたほうがいいのではないでしょうか。




Sad Management考

Introduction-2
(サッドマネージメント考その2)

Sad Management。
これは、このブログのサブタイトルです。

さて、最近みんなが気になっているワードが、anger managementと言う言葉。
アンガーマネージメントとは、和訳通り、怒りをマネージメントしようというもの。
人間社会の中で、不用意な怒りを発動することなく、周囲の人々と上手に共存していくための、いわばアサーション作法です。
世間には日本アンガーマネージメント協会という団体も存在し、
協会は、アンガー マネージメントファシリテーターを育成して、幸福な社会を醸成しようと考えているのだと思います。

不用意な怒りを自己管理する、それは社会生活において大切なスキルだと思いますが、
他の感情についてはどうなのでしょうか。
喜怒哀楽という四文字熟語が表す四つの感情。
喜と楽については、とりあえずおいておくとして、見逃せないのが怒と哀。
怒ーアンガーマネージメントはすでに有名だけど、
哀ーサッドマネージメントってあるのでしょうか?

ググって みました。
ありませんね。

ならば。と私が作ってみることにしたわけです。

なんの後ろ盾もお墨付きも、理論体系もありません。
だから"My(私設)"というものですが、そこのところは忖度お願いします。

Sadをmanagementすること、その意味、その方法を、一緒に考えていきませんか?

「悲しいときは泣く」考

Introduction
(サッドマネージメント考)

悲しいときは泣く。
本ブログのタイトルですが、なんだか、もの悲しい言葉に聞こえるかもしれませんね。
それにちょっと小説か映画タイトルのパクリっぽくもありますし。
でも、そこのところはご容赦ください。

本論に戻ります。
「悲しい」という言葉はネガティヴですが、その「向こう側」にあるものは、決してネガティブではありません。

時として、人間に訪れる悲しいという感情。

大切な人を亡くした。
ひどい災難にあった。
夢や希望を打ち砕かれた。
他者からひどい仕打ちをされた。
大事な財産を失った……。

長く生きれば生きるほど、
いいことと出会うチャンスが増えるのと同じくらい、
悲しみと出会ってしまう可能性も高まります。

でも、それは普通のことなんです。

よほど感情のない人工生命体でもない限り、
生きていれば、悲しいことを経験してしまうのは当たり前のことなんです。

では、訪れてしまった悲しみとどう対峙するか。
胸が押しつぶされそうなほどの哀しみとどう向き合い、乗り越えていくのか。

本ブログ「悲しいときは泣いて〜SadManagement塾」は、
そのような、悲しみを乗り越え、
その先にあるものを手にしたい人に向けてお話しします。