2017年8月3日木曜日

悲しみを引き起こすもの。

entry #4
<サッドマネージメント塾-第4夜>

人生に悲しみはつきものだ。
誰が言ったわけではありませんが、まったくその通りだと思います。
人生の中で一度も悲しみを味わったことがないなんていう人が存在するのでしょうか?
この世に生を受けて生きていく限り、悲しみと出会ってしまうのは生き物の宿命です。

具体的に、「悲しみ」を誘発するのはどんなことなのでしょう。

まず、絶対に避けられないのが死別です。
親との死別。
子との死別。
親や子に準じる者、連合いや兄弟、友人、ペットとの死別。

次に考えられるのは喪失です。
喪失とは、いわばモノや事柄との死別。
命より大切な何かを失ってしまう。
家や土地、財産を失ってしまう。
長年かかって築きあげてきた地位を失う。
友の裏切り。
配偶者の裏切り。
夫婦や親友、親子関係など、人間関係の喪失。

そしてもっと深刻な悲しみを引き起こすのが絶望。
絶望とは「希望を失う」という意味ですので、上記「喪失」に含まれるものではありますが、とりわけ別項目にすべきほど重要なものです。
夢や希望の喪失。
病などによる自己の余命宣告。
上記なんらかを喪失したことによる絶望。
死への不安や恐怖による精神喪失。
形而上(哲学的)への執着が生む生への諦念。

今はこのくらいしか思い浮かびませんが、人間に悲しみをもたらすことは、他にもたくさんあるに違いありません。

大括りに書いてもこんな感じですから、小さな誘引まで細かく書き出すと、実にたくさんの哀しみ誘因がありそうです。

そして、これらのどれ一つをとっても違わないのは、
起きてしまった場合にはおそらく二度と取り戻せないし、
だからこそ、悲しみが誘発されるのだ、ということです。

さて、みなさん、こうした悲しみがやってきた時、あなたならどう向き合いますか?



哀しみにマネージメントは必要か?

entry #3
<サッドマネージメント塾-第3夜>

Anger Managementにインスパイアされて、Sad Managementなどと言いだしましたが、果たして、Sad(哀しみ・悲しみ)にマネージメントなど必要なのでしょうか?

怒りの場合、社会において、それが人を傷つける言動になったり、暴力を誘発させたり、ひどくなれば争いにまで発展する可能性があるわけで、そうしたことを防止する意味でも、怒りをコントロールする技は必要かもしれません。

ところが悲しみについてはどうでしょうか?

悲しみは誰かを傷つけるでしょうか。
いや、むしろ、悲しみは誰かから傷つけられた時に起きる感情です。
だから、外に向けてというよりは、自分自身を守るために哀しみをコントロールする術が必要なのかもしれません。

そして、悲しみは暴力や争いを引き起こすのでしょうか?
直接的にはそのようには結びつきません。
しかし、あまりにも深い悲しみに、心身ともに傷ついてしまった人間のこころは、
やがて怒りの炎へと変化してしまう可能性はあります。
シンプルに湧き起こった怒りよりも、悲しみ転じて燃え盛る怒りは、強烈なものになってしまう!というような物語はあるのではないですか?
物語的には復讐劇なんていうものがそれですね。
シェークスピアの「ハムレット」や、第88回アカデミー賞受賞の「レヴェ何と甦りし者」
は、悲しみの果てに復讐を遂げるお話です。

こう考えると、悲しみが暴力に直結するわけではありませんが、怒りの火種となる悲しみをマネージメントすることは必要なのかもしれません。

復讐劇なんて、話はいささか飛躍しましたが、人間にとって悲しみを抱くことは、なんらかマイナスの方向に転じてしまうことは想像するに難しくありません。

悲しみのあまり、会社に行けなくなってしまった。
悲しみのあまり、家族が崩壊してしまった。
悲しみのあまり、頭がおかしくなってしまった。
悲しみのあまり、性格が歪んでしまった。
悲しみのあまり、人生が狂ってしまった。
悲しみの果てに、身を投げてしまった。

想像の世界ではこのようなことが考えられますが、世の中で起きている様々な事件や悲劇の裏には、このようなことが結構あるのではないかと思います。
ということは、今は関係ないと思っている私にとって、他人事ではないような気がしてきます。

実際のところ、昨年私自身が体験したことですが、十四年間可愛がってきた愛犬を病気で亡くしました。
人でも動物でも、いつかは死んでしまうことがわかっていても、いざ死を迎えてしまうと、その悲しみははかり知れません。
直後には四六時中亡くした愛犬のことを想い、一年をすぎた今でも、折に触れて彼女のことを思い出しては当時の悲しみが舞い戻ってきます。
愛犬を亡くした悲しみですら、無気力や虚脱感でいっぱいになりました。

私の場合は徐々に立ち直ってきていますが、未だに犬を飼う気になれません。
私などと違ってもっと繊細な性格の人であれば、そのままこころの病に陥ってしまうこともあるかもしれません。

そうした場合にはメンタルケアが必要になるでしょう。

Sad Managementとは、こうした、悲しみに囚われた人を救済するためにあるべきもの、
私はそう考えます。


哀しみと悲しみについて。

entry #2
<サッドマネージメント塾-第2夜>

ブログタイトルは「悲しい・・・」ですが、本文では哀しいと書いたりしています。
はて、悲しみと哀しみは違うのでしょうか?
ググってみると、大辞林第三版では以下の通り。

悲しみ・哀しみ・愛しみ

① かなしむこと。 「 -に打ち沈む」 ② いとおしむこと。また、あわれむこと。 「祖子おやこの-深き事を知しめんが為也/今昔 4」
大辞林 第三版


つまり、悲しみも哀しみも、そして愛しみというものもあって、すべて同じ意味なのですね。

知恵袋さんの回答では、
「悲しみ」は「哀しみ」を含む「大きい語」とし、
「哀しみ」のほうは、より個人的で「センチメンタル(感傷的)」な思い入れを表現したいときに使われることが多い。
などと答えられています。

また、他のサイトでは、
「悲」は悲痛に通じ、広くかなしみ一般であり、
「哀」は死者に対する哀告の儀礼としています。

さらに、映画の邦題や、物語的には、一般的な「悲しみ」よりも何か意味ありげで目立つ「哀しみ」が使われることが多いようです。

ということで、基本的には悲しみも哀しみも同じ意味、
本ブログでは、タイトル通りに基本悲しいを使いますが、
時には哀しいの方で表現したりします。
でも、ニュアンスの違いだけで、基本的には同じ意味であると考えてくださいね。


涙の止め方。

entry #1
<サッドマネージメント塾-第1夜>

人は悲しくなると涙が出ます。
希には涙しない人もいますが。

子供が泣くと、泣いたらいかん! と大人は言います。
大人が泣いても、泣いたらダメ、泣かないで 、と周りの人は言います。

泣くのを止めようとするのは、つまり励ましの代替行為。
泣くのをやめたら、悲しみが消えるような気がするのですね。
これは、後でふれますが、あながち間違ってはいない。
それに、目の前の人の涙は、伝染して、こちらまで辛くなるから、やめてもらいたいという気持ちも働くのではないでしょうか?

さて、このように、悲しいときに流れる涙は良くないものでしょうか?

no。そんなことはない。

あなたもきっと、そう思いますよね。

痛みが、体を傷つけるものから守るためのアテンションであるように、
涙は、おそらく、傷ついたこころを癒すための緩和剤なのだと思います。

悲しいなら、泣きなさい。
もっと泣いて、泣いて。
思う存分に泣くんですよ。

私はこれが本当の慰めだと考えます。

いくら泣いていても、泣き止まない人はいない。
涙が枯れるまで、と言いますが、本当に体液の全てが涙に変わって枯れ果ててしまった人の話は聞いたことがありません。

涙は、いつか止まり、気分はいくぶんすっきりとする。
涙には浄化作用がある、そういう人もいますね。

泣きたいときには思う存分に泣く。


ブログタイトル通り、
Sad  anagementの第一歩はこれです。

ところで、泣くのをやめさせることへの一理について。

人は、悲しいから泣くのでしょうか。
それとも、涙が出るから悲しくなるのでしょうか。

そりゃあ前者、悲しいから涙が出るに決まっている。
ほとんどの人がそう思うでしょう。

ところが、そうでもないらしいです。

認知心理学では、涙が出ることによって悲しみの感情が現れる、ということも実証されているそうです(ジェームズ・ランゲ説)。

肉体の動きによって、感情を制御することができるのです。
だから、涙を止めることができれば、悲しみも減ります。

たとえば、泣いている人をくすぐったり、ぴょんぴょん跳ねさせたり、
とにかく泣けない状態にしてしまい、涙が止まると、少なくとも一時的には悲しみの表情は薄れます。
泣きながらくすぐられている、泣きながら飛び跳ねている、
そんな人は見たことがありませんね。

ただし、一時的に涙を止めて、悲しみを中断できたとしても、
悲しみはまた込み上げてきて、涙が溢れてきます。

やはり、涙が自然に止まるまで、枯れ果てるまで、泣いて昇華させたほうがいいのではないでしょうか。




Sad Management考

Introduction-2
(サッドマネージメント考その2)

Sad Management。
これは、このブログのサブタイトルです。

さて、最近みんなが気になっているワードが、anger managementと言う言葉。
アンガーマネージメントとは、和訳通り、怒りをマネージメントしようというもの。
人間社会の中で、不用意な怒りを発動することなく、周囲の人々と上手に共存していくための、いわばアサーション作法です。
世間には日本アンガーマネージメント協会という団体も存在し、
協会は、アンガー マネージメントファシリテーターを育成して、幸福な社会を醸成しようと考えているのだと思います。

不用意な怒りを自己管理する、それは社会生活において大切なスキルだと思いますが、
他の感情についてはどうなのでしょうか。
喜怒哀楽という四文字熟語が表す四つの感情。
喜と楽については、とりあえずおいておくとして、見逃せないのが怒と哀。
怒ーアンガーマネージメントはすでに有名だけど、
哀ーサッドマネージメントってあるのでしょうか?

ググって みました。
ありませんね。

ならば。と私が作ってみることにしたわけです。

なんの後ろ盾もお墨付きも、理論体系もありません。
だから"My(私設)"というものですが、そこのところは忖度お願いします。

Sadをmanagementすること、その意味、その方法を、一緒に考えていきませんか?

「悲しいときは泣く」考

Introduction
(サッドマネージメント考)

悲しいときは泣く。
本ブログのタイトルですが、なんだか、もの悲しい言葉に聞こえるかもしれませんね。
それにちょっと小説か映画タイトルのパクリっぽくもありますし。
でも、そこのところはご容赦ください。

本論に戻ります。
「悲しい」という言葉はネガティヴですが、その「向こう側」にあるものは、決してネガティブではありません。

時として、人間に訪れる悲しいという感情。

大切な人を亡くした。
ひどい災難にあった。
夢や希望を打ち砕かれた。
他者からひどい仕打ちをされた。
大事な財産を失った……。

長く生きれば生きるほど、
いいことと出会うチャンスが増えるのと同じくらい、
悲しみと出会ってしまう可能性も高まります。

でも、それは普通のことなんです。

よほど感情のない人工生命体でもない限り、
生きていれば、悲しいことを経験してしまうのは当たり前のことなんです。

では、訪れてしまった悲しみとどう対峙するか。
胸が押しつぶされそうなほどの哀しみとどう向き合い、乗り越えていくのか。

本ブログ「悲しいときは泣いて〜SadManagement塾」は、
そのような、悲しみを乗り越え、
その先にあるものを手にしたい人に向けてお話しします。