<サッドマネージメント塾-第17夜>
「死を想え」という副題が付いているにもかかわらずです。
今になって、メメント・モリとは、ラテン語で「いつか死ぬことを忘れるな」という言葉だと認識しました。
(以下wikipediaより抜粋)
メメント・モリ(羅: memento mori)は、ラテン語で「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」という意味の警句。「死を記憶せよ」などと訳され、芸術作品のモチーフとして広く使われる。 京都学派の哲学者として知られる田辺元は最晩年に「死の哲学(死の弁証法)」と呼ばれる哲学を構想した。その哲学の概略を示すために発表された論文が「メメント モリ」と題されている。田辺はこの論文の中で現代を「死の時代」と規定した。近代人が生きることの快楽と喜びを無反省に追求し続けた結果、生を豊かにするはずの科学技術が却って人間の生を脅かすという自己矛盾的事態を招来し、現代人をニヒリズムに追い込んだというのである。田辺はこの窮状を打破するために、メメント・モリの戒告(「死を忘れるな」)に立ち返るべきだと主張する[1]。
「世界中に存在している人が死ぬ割合はどのくらい?」
そう問われたらなんと答えますか?
半分くらい?
もっと多い?
答えは100%ですね。
人は、いや、生き物はすべてみんないつか死ぬのです。
その事実はみんなが知っているはずなのに、誰一人として自分のこととは思えない。
誰一人として、は言い過ぎましたが、でもわかっていても自分だけは死なないのではないか?と考えてしまうし、そう思いたいのではありませんか?
若い自分から死を意識している人がいるとすれば、哲学者かかなり屈折した人でしょう。
ところが親や身近な知人が逝き、自分自身も歳をとってくると、どんどん死が身近に感じられるようになります。
60歳を過ぎると自分の親がいくつで亡くなったか、
現在の平均寿命は何歳かなどと調べ、その年齢までを指折り数えてしまいます。
あと何回桜が見られるだろう?
あと何回お節料理が食べられるのだろう?
そんなことを考えてしまうのですが、それでもまだ自分が死ぬその時を想像できません。
それはたぶん、そんなことを考えたり想像してもどうしようもないからです。
もし、なんとか自分の死ぬ姿を想像できたとしても、
それは決して喜ばしいものではありませんね。
悲しく、寂しくなってしまうだけです。
メメント・モリ。
自分がいつか死ぬことを理解しても、それほど悲しいという感情はわいてきません。
むしろ、その時がくるまでにしたいことを考えはじめ、残りの人生をどう過ごそうかとか、人によっては今際の床で言うべき最後の言葉を決めておこうと思ったり、つまり、「死に方」と言うよりは、「死ぬまでの生き方」に向かい合うようになるのです。
それこそが、memento moriという言葉の真意なのかも知れません。