2017年10月20日金曜日

泣くチカラ。

entry #21
<サッドマネージメント塾-第21夜>

「最近涙腺が弱くなって・・・」

歳をとって涙もろくなったという人がいます。
確かに筋力の衰えと同様に、涙腺というものも弱まるのかもしれません。
また、人によってよく泣く人と、泣く姿をみることのないような人がいます。
この違いは、 涙腺の力こぶの違いもあるでしょうし、心の耐性の差ということもあるのでしょう。

ここで思い出しました。個人的な体験ですが、数年前に実母を亡くした時のことです。
一年あまりの闘病だったのですが、私は最後の一息まで共にすることができました。とても悲しかったはずなのに、今際のときに涙は出ませんでした。
その理由をいま考えると、死を目の当たりにしながらも現実感がないという麻痺状態だったのかもしれません。それとこれから葬儀に向けての緊張もあったかと思います。
通常の精神状態ではなかったということでしょうね。

むしろ、葬儀が終わってから、いつでもいつまでも涙が溢れました。何かにつけて母の面影を思い出しては涙するという状態が3年以上続きました。

この経験から、涙をこらえる方法はあるとわかります。
悲しい現実を現実のことと思わない、
自分に関係したことと思わない、
気持ちを緊張させる、
何か別のことに気を向ける、
こころを鈍感にする、
こんなことです。いや、そんなことできないという人もいるでしょうが……。

ですが、涙をこらえて泣かないでいると、感情のどこかが壊れてしまうような気がします。悲しいはずなのに、泣くのを我慢すると悲しさを失ってしまったような。
なんだか矛盾するような話ですが。

人間は感情と共に生きる生物です。
悲しいときに悲しんでこそ、うれしいときにも存分に喜べるような気がします。
自分の感情とまっすぐに向き合うことで、人間らしく生きられる。
泣くチカラがあってこそ、喜ぶチカラ、怒るチカラ、楽しむチカラも育まれるような気がします。


涙のスイッチ。

entry #20
<サッドマネージメント塾-第20夜>

涙にはスイッチみたいなものがあるのでしょうか?
悲しくもないのに、ふいに涙が溢れることがあります。
目にゴミが入った?
悲しいドラマを観た?
いえいえ、どちらも違います。

窓外の風景を眺めていたら、意味もなく涙が出てきた。
どこかから聴こえてくる音楽に、涙が誘われた。

こんな感じです。

もしかしたら軽い鬱か気分変調症に陥っている、ということも可能性としてはなくもないですが。
でも、それまでは普通に、鬱っぽくもなかったのに、涙が出てしまったなんて人、結構いると思います。

いくつか考えられます。
何か昔の経験が知らず想起されてしまったのではないでしょうか。
それは悲しい思い出とは限りません。
懐かしさであったり、優しかった母の思い出だったり、
悲しいのではなく、胸がきゅんとするような。
たぶん、風景の中の何かや、聞き覚えのある音楽、場合によっては匂いや色彩、味覚や触覚など、五感に受ける刺激から脳内にドーパミンか何かが分泌されて、涙が誘発されるのでしょう。

もうひとつは、ストレスがたまっているせいかもしれません。
ストレスがたまると自律神経系の交感神経の働きが活発になって、脈拍や血圧の急上昇といったからだの変化が起こります。
日中の活動時間は交感神経が働くのが普通ですが、休むべき時間までこの状態が続くと、
ストレスはたまりっぱなし、からだもおかしくなってしまいます。
交感神経と対をなす副交感神経が働いて、リラックス状態を促すことが必要なのです。

ストレスがたまったときは、眠ることがいちばん。j眠れば自然に交感神経が鎮まり、副交感神経が働いてストレスを解消してくれるからです。

ところで眠る以外に、もうひとつ交感神経を鎮めて副交感神経に切り替えるスイッチがあるそうです。それが涙。

交感神経の緊張が高まって、前頭前野が興奮状態になったとき、涙が流れるとスイッチが副交感神経に切り替わり、リラックス状態に誘われます。こうすることによって、眠りと同じように心はリラックスして安らぐのです。泣いた後はとてもスッキリするのはこんなメカニズムによるものだったのですね。

ストレスのせいかどうかは別として、泣くと気持ちが浄化される感じがするというのは、みんなが経験済みですよね。
entry#1「涙の止め方」でも書きましたが、泣くことはとても大切。
泣きたいときは存分に泣く、がいいのです。
遠慮なく、涙のスイッチをオンにすればいいのです。



悲しいときは泣く

こんにちは。
サッドマネージメントのふみみです。
悲しみを乗り越えていきたい、という想いを込めて
「悲しみの向こう側へ」というタイトルでブログを始めましたが、
どうも昔の歌曲タイトルとかぶっているようですし、
悲しみを抱えているあなたの気持ちに寄り添えていないような気がして、
タイトル変更しました。

想いは同じですが、
「悲しいときは泣く」
トップエントリで書いた内容通りのものにしました。

この世の、悲しみに耐えている人の力になりたい気持ちを込めて、
これからもサッドマネージメントについて考え続けます。
よろしくお願いしますね。


2017年9月30日土曜日

希死念慮という言葉。

entry #19 
<サッドマネージメント塾-第19夜>

カウンセリングを学び、サッドマネージメントについて考えているうちに、
「希死念慮」という言葉を知りました。
これまでは聞いたこともなかった言葉です。

希死念慮

いったいこれは、どう言う意味?

希死念慮とは、
「死にたい」
「死んでしまいたい」
「死ねばきっと楽になれる」
「いっそ、死んだほうがいい…」

などと漠然と自死について考えること全般をいいます。

もっと具体的に死に方を考えたり、どうやって死ぬかという方法にを調べ始めたり、
実際に死ぬという計画性が伴うと「自殺企図」という別の概念になるそうです。

つまり、希死念慮に比べると、自殺企図はずっと自死のを実現する可能性が高いということですから、危険度は高まります。
希死念慮という段階であれば、誰だって人生の中で一度くらいは頭の中をよぎることはありえることですよね。と考えると、自殺企図に比べれば心配するほどではないと考えられます。

とはいっても、「死んでしまいたい」などの希死念慮が浮かんでくるということは、かなり生きることに辛さを感じているということでしょうから、ほっておいていいというものでもないでしょう。誰かに、何かに・・・死という概念に救いを求めているとも考えられますから、やはり何かのケアが必要なのです。

ケアが必要と言われても、いったいどうすればいいのでしょうか。

こうすれば希死念慮は消える!
残念ながらそんな薬も魔法もありません。
希死念慮に至る道筋は人によって違うからです。

しかし、共通して言えることは、「死にたい」と思うのは、
「生きていたくない」、生きている意味を見失っているということです。
もしくは、生きていることに絶望して、もはや死を選ぶしかないのではないかと思いはじめます。

最初はなんとなく「死にたい」であった思いは、
やがて思い込みの深みにはまっていきます。
どんどん視野が狭くなっていくのです。
狭くなってしまった視野は、本人の力ではなかなか元には戻せないことがほとんどです。

ということを前提に考えると、ケアの方向はこんなことかもしれません。
1.一人にしない。孤立感を和らげる。
2.なぜ死にたいと思うのか、原因を聞く。
3.死にたいくらい辛い気持ちを共有してあげる。
4.一人じゃない、仲間がいることをわからせる。
5.死ぬ以外の選択肢を共に探す。

とにかく、孤立感を和らげ、仲間がいることで狭くなった視野を広げていく努力をするということが「大事なのだと思います。

最後に、「死にたい」と口には出さないけれども、希死念慮を抱えているケースもあると思います。

たとえば、
・口数が極端に減った。
・ぼんやりと空ばかり見つめる姿が増えた。
・人と関わることを嫌うようになった。
・仕事が手につかない様子がわかる。
というような人が周囲にいたら、なにか辛そうだけど、話を聞いてあげようか? と声をかけてあげる必要があると考えられますね。

今回は少し重いテーマでした。




2017年9月25日月曜日

人はなぜ怒り、人はなぜ悲しむのか。

entry #18
<サッドマネージメント塾-第18夜>

妻や子供に対して怒りの言葉を爆発させるお父さん。
部下に対して口角泡を吹いて怒鳴り散らす上司。
恋人に怒りを露わにする男女。

彼らはどうして、何を怒っているのでしょう。
時には国家の代表がマスコミの前で怒りを発することもありますね。
すべての怒りは共通した理由によるものだと思いませんか?

そうです。
自分の思うようにならないから怒っているのです。

 「進学しろって言ったじゃないか!」
「どうして売り上げを上げられないんだ!」
 「約束したじゃないのっ」
「T島は我が国家の領土だ!」

 人は、自分の思い通りにならない事柄に対して憤りを感じて怒り出す。
その怒りに相手が脅威を感じたら、怒りの前にひれ伏し、結果怒り主の思いは実現に向かうことになれば、怒りは収まっていく。

それはジャングルの王者が弱者を威嚇するのとまったく同じだ。
しかし、人間社会では、弱肉強食に逆らう人間が現れるので、怒りが徒労に帰することも往往にして起きるのです。
そんなに真っ赤になって怒っても仕方ないじゃない、と諌められることになるのですね。 

では、悲しみの場合はどうなのでしょう。 

「息子が受験に失敗した。あんなに頑張っていたのに!」
「大事なお得意先を失ってしまった」
「別れ話をされるなんて」
「裏金工作が暴露されてしまった!」 

怒りと似ているというか、思い通りにならないということが原因であるという側面は同じようです。
違うのは、おおむね結果に対してわき起こるということ。
何か大切なものを失ってしまった、失うことが決定的になった、という取り返しのつかない 事態に接した時に、嘆き、悲しみという感情が発生するのではないでしょうか。

怒りは、 まだなんとかできる、という事態に対して力づくで対処しようとする感情。
悲しみは、もはやどうしようもない、諦めるしかないが諦めきれない、という事態に直面して陥る情緒。

こう分析できると思いませんか?
こう考えると、怒りよりも悲しみの方が深い。
怒りにはまだ未来が見え隠れしているが、悲しみにはそれがないんですね。 
アンガーマネージメントは怒りをコントロールすることによって、もっと効果的に未来を実現できますよ、という処世の戦略術。
しかし、悲しみに未来がないとすれば、サッドマネージメントになんの意味があるのか。

サッドマネージメントにはもっと重要な意味があります。
目の前の事態に対する処方はできません。
しかし、その先にある人生を見据えた時、悲しみをどう乗り越えるかが重要な意味を持つと思うのですが、いかがでしょうか。

 

2017年9月24日日曜日

memento mori〜自分の死を忘れるな

entry #17
<サッドマネージメント塾-第17夜>

メメント・モリといえば、1983年に出版されたベストセラー、写真家藤原新也の写真集が有名だが、当時私はその意味をあまり考えませんでした。
「死を想え」という副題が付いているにもかかわらずです。 
今になって、メメント・モリとは、ラテン語で「いつか死ぬことを忘れるな」という言葉だと認識しました。 

(以下wikipediaより抜粋)
メメント・モリ(羅: memento mori)は、ラテン語で「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」という意味の警句。「死を記憶せよ」などと訳され、芸術作品のモチーフとして広く使われる。 京都学派の哲学者として知られる田辺元は最晩年に「死の哲学(死の弁証法)」と呼ばれる哲学を構想した。その哲学の概略を示すために発表された論文が「メメント モリ」と題されている。田辺はこの論文の中で現代を「死の時代」と規定した。近代人が生きることの快楽と喜びを無反省に追求し続けた結果、生を豊かにするはずの科学技術が却って人間の生を脅かすという自己矛盾的事態を招来し、現代人をニヒリズムに追い込んだというのである。田辺はこの窮状を打破するために、メメント・モリの戒告(「死を忘れるな」)に立ち返るべきだと主張する[1]。  


「世界中に存在している人が死ぬ割合はどのくらい?」 


そう問われたらなんと答えますか?

半分くらい?
もっと多い?

答えは100%ですね。

人は、いや、生き物はすべてみんないつか死ぬのです。
その事実はみんなが知っているはずなのに、誰一人として自分のこととは思えない。
誰一人として、は言い過ぎましたが、でもわかっていても自分だけは死なないのではないか?と考えてしまうし、そう思いたいのではありませんか?

若い自分から死を意識している人がいるとすれば、哲学者かかなり屈折した人でしょう。
ところが親や身近な知人が逝き、自分自身も歳をとってくると、どんどん死が身近に感じられるようになります。

60歳を過ぎると自分の親がいくつで亡くなったか、
現在の平均寿命は何歳かなどと調べ、その年齢までを指折り数えてしまいます。
あと何回桜が見られるだろう? 
あと何回お節料理が食べられるのだろう? 
そんなことを考えてしまうのですが、それでもまだ自分が死ぬその時を想像できません。

それはたぶん、そんなことを考えたり想像してもどうしようもないからです。
もし、なんとか自分の死ぬ姿を想像できたとしても、
それは決して喜ばしいものではありませんね。
悲しく、寂しくなってしまうだけです。

メメント・モリ。

自分がいつか死ぬことを理解しても、それほど悲しいという感情はわいてきません。
むしろ、その時がくるまでにしたいことを考えはじめ、残りの人生をどう過ごそうかとか、人によっては今際の床で言うべき最後の言葉を決めておこうと思ったり、つまり、「死に方」と言うよりは、「死ぬまでの生き方」に向かい合うようになるのです。
それこそが、memento moriという言葉の真意なのかも知れません。

 

2017年9月12日火曜日

自己不一致という哀しみ。

entry #16
<サッドマネージメント塾-第16夜>

日本における心理カウンセリングの父と呼ばれているカール・ロジャース(Carl Ransom Rogers, 1902 - 1987)の言葉で、「自己一致(congruence)」という考え方があります。これは、カウンセラーにとって重要な3つの基本的態度の一番目に掲げられているものです。

自己一致とは、自分の内面にあるものと、外に向けて体現しているものが一致しているということです。言い換えると、内も外も一致してありのままの自分であるということ。カウンセリングするものにとって、ここに矛盾点があってはいけないとロジャースは説いています。

ここでは、カウンセリングの話をするわけではないので、ロジャースの話はここまでとしておきますが、自己一致転じて自己不一致(incongruence)という問題について考えてみました。

自己不一致とは、自己一致の逆、つまり、自分の内面と体現するものが一致していないということです。もう少し かみくだいてみましょう。

自分の内面で感じていることとは、たとえば

・自分はどういう人間か
・何をしたいと思っているのか
・誰のことが好きで、誰のことは嫌だと思っているのか
・どんな夢を描いているのか
・どうなりたいと思っているのか
・どんな人間になりたいのか

思索の数だけ、あるいは感じているだけ、さまざまな数え切れない内面があると思います。
ところが、その自己の内面を自分自身では認識できていないことがあります。

普段、そんなに自分の内面について深く考えたりしていないでしょうし、なんとなく好感を持っている相手のことをどこまで好きかなんて意識していないこともあるでしょう。
自己認識ですらそういうことですから、その内面がまっすぐに行動や言動に現れていないことだってあるでしょう。

それこそ、「ありのままの自分」で生きていて、内面と体現しているものがほとんど一致しているというまっすぐな人もいることでしょう。しかし、私たちは自分で思っていることを実現するために行動しているつもりですし、実際にはそうはなっていないとしても、自分ではそうできていると信じているのではないでしょうか。

さて、ここからが本題ですが、悲しみは喪失感によって引き起こされると書いてきました。喪失感とは、大切な人や大切な何かを失うということです。

この、大切な人や何かは、自分の内面でそう思っている、信じている事柄です。
大切だと思っているからこそ、その人やものを守り育み、愛しているのですよね。
ところが、何者かによってそれが阻害されてしまう。剥奪されてしまう。
自分の内面にあるものを実現して一致している外側の環境が壊されてしまう、
つまり自己一致している事柄が無理やり不一致状態にされてしまうわけです。

わかりやすく言えば、「こうでありたい」と思っているのに、自分の行動とは関係ないなんらかの外的要因によって、そうではない状態になってしまった! ということですね。

そのような境遇に置かれてしまった人間は、落ち込んで悲しみに襲われるのではないでしょうか。悲しみよりも怒りを覚える人もいるかもしれません。しかし怒りに満ちた人も、いくら怒ってもどうしようもないことがわかると、やがて悲しみの淵に立たされることになるのです。

思い出してみましょう。
怒りを感じるのはどんな時か。
悲しみに満ちるのはどんな時か。

およそ、自分の望みが、望みとまでいかなくても「こうあってほしい、こうあるべき」と思っていたことが実現できなかった、あるいは絶たれてしまった時ではないですか?

死別も喪失も、それによって自分の内面で描いていたことが、実現できなくなるから哀しみにつながる。すべての悲しみは、このような自己不一致によるものであると思うのですが、違うでしょうか?






2017年9月10日日曜日

悲しみはいくつある?〜喪失から生まれる9つの感情。

entry #15
<サッドマネージメント塾-第15夜>

悲しみの対象、癒しを考える上で、もう少し「悲しみ」について考察が必要です。
すでにentry#4では「悲しみを引き起こすもの。」について、悲しみの原因には、"死別""喪失""絶望"の、大きく3つが考えられると書きました。

死別は、愛する人を失うことですから、喪失に含まれます。さらに、喪失にすら至らない喪失、つまり得られないということもありますね。永遠の片想いとか、子供ができないとか、お金が手に入らないとか。

絶望についても、夢や希望、生き甲斐、自分の存在意義、尊厳、生命、命より大切なもの、そんなものを失って、もはやどうしようもない深い闇に落ち込んだときに生じるとすれば、これもまた大きく言えば喪失によるもにです。

まとめると、悲しみは、大切な何かを失ってしまったとき、あるいは大切な何かが得られなかったときの感情ということです。

では、悲しみにはどんな種類があるでしょうか。

◾️喪失感 死別や破産、形あるものの喪失
大切な人や財産、大切にしている事柄など、主には形あるものを失ったときに感じる言いようのない根本的な哀しみ。

◾️孤独感 人間関係、社会関係の喪失
この世にたった一人孤立している、友人どころか知人も仲間も、助けてくれる人も理解してくれる人もいないという悲しみ。

◾️寂寥感 人間関係や心の拠り所の喪失
仲間がいないわけではないが、どうせ理解されない、孤独感とまでもいかない寂しさ。荒地や海などの心象風景によってさえ呼び起こされる状態のときの感情。

◾️不信感   裏切りや疑惑による信頼関係の喪失
信じていた人に裏切られた、裏切られるかもしれないと思うときに感じる喪失感。

◾️疎外感   居場所や存在感の喪失
自分では孤立しているつもりはないのに、周囲から居場所を奪われ、存在を否定されたときの感情。

◾️非承認感   承認欲求が叶わないことによる自尊心・プライドの喪失
誰かに認められたい、わかってもらいたい、自己の能力や場合によっては存在そのものを認めて欲しいという承認欲求が叶わないときにわき起こる悲しみ。

◾️挫折感   自己の価値や存在感の喪失、自己崩壊感
夢や望みが断たれ、自分の価値を低く見たり、自分の存在を否定している状態の感情。

◾️虚無感・空虚感   絶望に至る自己の喪失
挫折や喪失をきっかけに、もう何もかもが空っぽになってしまった、虚しいと思う絶望一歩手前の感情。

◾️絶望感 夢や希望、生き甲斐、存在意義など、自己の喪失
この世のすべてに意味を見出せなくなってしまった、死に至る感情。通常は喪失感に由来することが多いが、哲学的な形而上の思惑に起因する場合もある。

どうでしょう。重複する箇所もあるかもしれません。上記に含まれない種類の悲しみが見つかったら、コメント欄で教えてください。


実はもうひとつ、「自己不一致による悲しみ」についても思い至ったのですが、これはすべてを包括するものとして、別枠にしました。詳しくは次のエントリーに書きますが、上にまとめた悲しみは、どの種類のものもすべて、理想と現実、内面と外面、自分の中で一致していないことが引き起こす感情だと思うからです。


2017年9月1日金曜日

絶望の学習〜Learned Helplessness

entry #14
<サッドマネージメント塾-第14夜>

ケージに入れた犬に軽い電気ショック(嫌悪刺激)を与え、ある行動(頭を動かすなど)をすると電気が停止することを学習させる。

次には、同じ電気ショックを与え、今度は何をしても電気は停止しない。

大雑把な言い方ですが、かつてアメリカでこんな実験が行われました。

今なら「動物虐待だ!」なんて言われそうですが、科学のために動物が犠牲になることも往往にしてあるのです。

行動心理学の動物実験で、有名なものがいくつかあるのですが、その中でもこの実験は、私にとって衝撃的であり、印象的なものでした。

これは、Learned Helplessness(絶望の学習)と呼ばれていて、犬が「何をしても仕方がない」ことを学習してしまったという実験です。

何をしても仕方ない、意味がない・・・これってやっぱり絶望状態ですよね。

私たちも、日常生活の中で、よかれと思ってやったことがダメ、

何をしてもうまくいかない、

「鈍すりゃ貧する、藁打ちゃ手打つ、便所入ったら人が入っとる・・・」

これは上方落語米朝師匠の一説ですが・・・(笑)

そんな状況が続いたら、

「もう知らん!どうにでもなれ!」

という絶望状態になってしまいます。

この実験の話をしたのは、絶望あるいは無力感というものが、科学的に実証されているということが言いたかったのです。

私たちは、日頃なんどもこのような絶望感や無力感に襲われます。
絶望は哀しみよりもひどい状態だと思います。
もはや哀しみさえ感じないのですから。

しかし、この状態は当事者にだけ訪れるものではなくて、同じ状況に置かれたら誰だってそうなる、そしてそれは物理的な、再現性のある現象であることを理解していたらどうでしょう。

絶望に陥った人間は、暗く深い穴の中に落ち込んだような気持ちになり、この世の中で自分だけがこんな辛い状況に陥っているのだという孤独感を伴います。

そのときに、いやそうじゃない、それはたまたまそんな状況が重なって、その反応として誰でも同じ心理になり、「何をしても仕方ない」という考えを持つに至るのだ。

そう思えば少し軽減されませんか?

この辛い状況をもたらしたものは偶然性のもので、その偶然起きた事柄がなくなりさえすれば、絶望する必要もない、また、次には必ず違う状況が訪れるのだ、そう考えを改めれば、再び希望が見えてくるのではないでしょうか?

こうした絶望に固執した考えをシフトチェンジすること、それが今でいう認知行動療法なのです。




■以下、Wikipediaから抜粋

[Learned Helplessness]

1967年、アメリカの心理学者マーティン・セリグマンとマイヤーが犬を用いて行ったオペラント心理学実験があります。
心理学者のマーティン・セリグマンが、1960年代にリチャード・ソロモンの元で学生生活をしていた時期に思いつき、それ以来10年間近くの研究をもとに発表した。抵抗や回避の困難なストレスと抑圧の下に置かれた犬は、その状況から「何をしても意味がない」ということを学習し、逃れようとする努力すら行わなくなるというものである。
学習性無力感は、1967年にセリグマンとマイヤーが犬に対して条件付けを用いて行った研究[7]によって提唱された[3]。また別の1967年の論文の[8]、実験の内容は以下である[5]
犬を以下の3つの群に分け、オペラント条件づけに従って、電撃回避学習を課した。
  • 頭部を動かすと電撃を停止できる群。
  • 第一統制群:パートナーが受ける電撃を同様に受ける。
  • 第二統制群:電撃を受けない。
第一統制群の、自分では電撃を停止できない犬は、回避行動をとらず、電撃を受け続けた。こうした実験によって非随伴的な刺激が与えられる環境によって、何をやっても無駄だ、統制不能だという認知を形成した場合に、学習に基づく無力感が生じるとし、学習性無力感が提唱されたのである[5]
続いて、サカナ、ネズミ、ネコ、サル、ヒトでも、適応的な反応を起こさなくすることが、実験にて観察され、その学習性無力感の症状が、うつ病の症状に類似しているとされた[5]
セリグマンは、1975年には、人間も加えた研究を加えて、うつ病の無力感モデルの理論的な基礎を形成し、1980年代にはその治療や予防に関しても、学習性無力感とうつ病とで比較し、それら二項間における内容はほぼ同様である[6]
1990年代には、セリグマンは楽観主義についてより多く執筆した[9]。セリグマンは、2000年ごろにはポジティブ心理学を提唱する。

治療[編集]

セリグマンらは、学習性無力感における「反応しても無駄であるという信念」を変える方法に認知行動療法を挙げている[11]。人間で効果が確認されている方法は、自尊心を回復したり、随伴性を示したり、失敗は別の理由で起こったと説明し励ましたりすることである[12]

2017年8月29日火曜日

死に至る病

entry #13
<サッドマネージメント塾-第13夜>

「死に至る病」とは、デンマークの哲学者セーレン・キェルケゴール(1813年5月5日 - 1855年11月11日)が著した哲学書のタイトルです。副題は「教化と覚醒のためのキリスト教的、心理学的論述」です。

私ははるか昔、高校生の頃このタイトルと出会い、深く感銘しました。
死に至る病って……どういう病なんだろう?
この訳本を購入した覚えはありますが、この方読んだ記憶はございません。
が、なんとなくタイトルだけでも内容の一部は察することができそうです。

ウィキペディアによると……以下抜粋。

   ★  ★  ★

死に至る病 - Wikipedia

出だしは新約聖書『ヨハネによる福音書』第11章4節で引用されている「この病は死に至らず」の話を紹介する文章から始まり、「死に至る病とは絶望である」と「絶望とは罪である」の二部で構成される。
本書でキェルケゴールは、死に至らない病が希望に繋がる事に対して死に至る病は絶望であると述べ[4]、絶望とは自己の喪失であるとも述べている[6]。しかし、この自己の喪失は自己のみならずとの関係を喪失した事となり[11]、絶望はであるとしている。そして人間は真のキリスト教徒ではない限り、自分自身が絶望について意識している、していないに関わらず実は人間は絶望しているのだとと説いている[4]
その絶望は、本来の自己の姿を知らない無自覚の状態から始まり[12]、更に絶望が深まると「真に自己」であろうとするか否かと言った自覚的な絶望に至る。絶望が絶望を呼び、むしろ絶望の深化が「真の自己」に至る道であるとしている。
第二部では絶望は罪と説いており、この病の対処法としてキリスト教の信仰を挙げ、神の前に自己を捨てることが信仰であり[10]、病の回復に繋がるとしている[6]
また、人間が起こす躓きは大きく三段階に分けられるとしており、
  • 信じもしないが判断も下されない段階
  • キリストを無視し得ないが、信じることもできない段階
  • キリストを否認する段階
キェルケゴールはこの三段階が決定的な死に至る病であると述べている[9]

   ★  ★  ★

ウィキでさえ、ちょっと読むのが面倒臭い記述。
ましてこの哲学書の読破は。

キリスト教的部分は、教徒でない私にはまったく理解不能ですが、死に至る病は絶望であるという部分は文字どおりに理解できるし、まったくその通りではないかと信じます。

パンドラの箱には希望が残っていたという逸話が示すように、人間が生存するために必要なのは、希望。その希望をも逸してしまったときに絶望が訪れる。
絶望は、人が生きていく力を失わせてしまう。
絶望することによって、生きる価値も失われてしまう。
生きる価値を失ってしまうと、もはや死んでいるのと同じ。
身体はまだ生きていても、生きる屍になってしまった人間にとって、そのまま生きているのも、肉体を自ら滅ぼしてしまうのも変わりがないように感じてしまう。
こうして死に至るのだ、と勝手に解釈しているのだが、違うでしょうか?

低空飛行者は2度死ぬ。

entry #12
<サッドマネージメント塾-第12夜>

鬱に陥る理由はさまざまです。
そもそも気分が低い人は、ほんの些細な出来事でひどく落ち込んでしまいます。
普段はとても元気なのに、大きな悲しみに遭遇して鬱状態になる場合もあります。
それ以外にも、なにという理由もなく、社会情勢や景気、自分が置かれている状況など、普段から悶々とした人生を生き、そうしたすべての要素が折り重なって鬱状態に落ち込んでいく人もいます。

鬱状態のことを「低空飛行」と表現した精神科の医師がいました。
うまい表現だと思います。私もこの言い方をよく使います。
低空飛行でも、墜落しない限りは生きていけます。
ただ、地面が近いので、墜落するとなるとあっという間に地面に激突してしまいます。
だから、地面にぶつからないように注意して飛行を続けることが重要です。

高度の高い状態から低空へと降下していく、つまり鬱状態に向かって真っ逆さまに下降しているとき、勢い余って地面に激突する確度が高まります。
これがいわゆる自死につながる第一の危機です。
危ういところで止まって、なんとか低空飛行でもいいから安定に持ち込めれば、しばらくは安心です。

ところが、この低空飛行から高度を上げていくときに、第二の危機が訪れるかもしれません。
とりわけ、静かな安定した状態の鬱から徐々に高度を上げていくのではなく、いきなり躁状態になるような人は危険だと聞きます。
鬱とはうって変わってなんでもできるようなハイな気分が訪れると、勢い余って飛び降りてしまうケースがあるそうです。
静かな鬱からの脱却時でも、上がりそうになってからまた操縦桿を下げてしまい、不安定な状況から墜落してしまうという感じでしょう。

低空飛行に向かうとき、そして安定した低空飛行から抜け出すとき、
人は2度危機に直面しているということを留意しておいてください。


2017年8月27日日曜日

哀しみからの立ち直りに潜む2つの危機。

entry #11

<サッドマネージメント塾-第11夜>

悲しみの淵に立たされたときから立ち直りまでの間に何らかの危機が潜んでいる。
前エントリの最後にそのように書きました。

 ①悲しい事実の否定
 ②悲しい事実に対する怒り
 ③事実を受け入れる前の鬱状態
 ④事実の受容
 ⑤立ち直り

いったい、この心理プロセスのどこに、どのような危機が潜んでいるのでしょうか?
ひとつは怒りの中に潜んでいます。
悲しみの果てに生じる怒りは、おおむね理不尽な怒りです。

こんな悲しい目に遭わせたのは誰なんだ、誰のせいでこんなことになったのだ?
実際に起きた事実とは違う誰かに向けられる怒り。
医師であったり、失われた人の周囲にいる人であったり、あるいは家族であったり。
その誰かの責任ではないにもかかわらず、哀しみに暮れる者は理不尽にも怒りの矛先を彼らに向けてしまうのです。

怒りのあまりに矛先が向けられた人物を殺めてしまう……そこまでサスペンス劇場的なことは滅多にないとしても、理不尽な怒りは後に遺恨を残す事態を引き起こすかもしれません。
人間関係に影響したり、家族関係に亀裂を生じさせたり、くらいのことはありうるでしょう。

さらに問題なのはもう一つの危機。それは自死の危機です。
事実を受け入れた結果、ひどい鬱状態に陥る人もいます。
鬱状態イコール自殺というわけではないのですが、大切な人の死があまりにも受け入れがたいものであったとき、しかしそれを受け入れざるを得ないとわかったとき、そこに現れる鬱は、通常のストレスから生じたものとは比べ物にならないほど深く大きく計り知れない虚無感をもたらすかもしれません。

こうした生への虚しさは自死に繋がる可能性は低くないでしょう。
また、自死の危機は鬱状態のときのみならず、そこから立ち直りをみせるタイミングでも訪れることがあるのです。