<サッドマネージメント塾-第13夜>
私ははるか昔、高校生の頃このタイトルと出会い、深く感銘しました。
死に至る病って……どういう病なんだろう?
この訳本を購入した覚えはありますが、この方読んだ記憶はございません。
が、なんとなくタイトルだけでも内容の一部は察することができそうです。
ウィキペディアによると……以下抜粋。
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死に至る病 - Wikipedia
出だしは新約聖書『ヨハネによる福音書』第11章4節で引用されている「この病は死に至らず」の話を紹介する文章から始まり、「死に至る病とは絶望である」と「絶望とは罪である」の二部で構成される。
本書でキェルケゴールは、死に至らない病が希望に繋がる事に対して死に至る病は絶望であると述べ[4]、絶望とは自己の喪失であるとも述べている[6]。しかし、この自己の喪失は自己のみならず神との関係を喪失した事となり[11]、絶望は罪であるとしている。そして人間は真のキリスト教徒ではない限り、自分自身が絶望について意識している、していないに関わらず実は人間は絶望しているのだとと説いている[4]。
その絶望は、本来の自己の姿を知らない無自覚の状態から始まり[12]、更に絶望が深まると「真に自己」であろうとするか否かと言った自覚的な絶望に至る。絶望が絶望を呼び、むしろ絶望の深化が「真の自己」に至る道であるとしている。
また、人間が起こす躓きは大きく三段階に分けられるとしており、
- 信じもしないが判断も下されない段階
- キリストを無視し得ないが、信じることもできない段階
- キリストを否認する段階
キェルケゴールはこの三段階が決定的な死に至る病であると述べている[9]。
パンドラの箱には希望が残っていたという逸話が示すように、人間が生存するために必要なのは、希望。その希望をも逸してしまったときに絶望が訪れる。
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ウィキでさえ、ちょっと読むのが面倒臭い記述。
ましてこの哲学書の読破は。
キリスト教的部分は、教徒でない私にはまったく理解不能ですが、死に至る病は絶望であるという部分は文字どおりに理解できるし、まったくその通りではないかと信じます。
パンドラの箱には希望が残っていたという逸話が示すように、人間が生存するために必要なのは、希望。その希望をも逸してしまったときに絶望が訪れる。
絶望は、人が生きていく力を失わせてしまう。
絶望することによって、生きる価値も失われてしまう。
生きる価値を失ってしまうと、もはや死んでいるのと同じ。
身体はまだ生きていても、生きる屍になってしまった人間にとって、そのまま生きているのも、肉体を自ら滅ぼしてしまうのも変わりがないように感じてしまう。
こうして死に至るのだ、と勝手に解釈しているのだが、違うでしょうか?