2017年8月29日火曜日

死に至る病

entry #13
<サッドマネージメント塾-第13夜>

「死に至る病」とは、デンマークの哲学者セーレン・キェルケゴール(1813年5月5日 - 1855年11月11日)が著した哲学書のタイトルです。副題は「教化と覚醒のためのキリスト教的、心理学的論述」です。

私ははるか昔、高校生の頃このタイトルと出会い、深く感銘しました。
死に至る病って……どういう病なんだろう?
この訳本を購入した覚えはありますが、この方読んだ記憶はございません。
が、なんとなくタイトルだけでも内容の一部は察することができそうです。

ウィキペディアによると……以下抜粋。

   ★  ★  ★

死に至る病 - Wikipedia

出だしは新約聖書『ヨハネによる福音書』第11章4節で引用されている「この病は死に至らず」の話を紹介する文章から始まり、「死に至る病とは絶望である」と「絶望とは罪である」の二部で構成される。
本書でキェルケゴールは、死に至らない病が希望に繋がる事に対して死に至る病は絶望であると述べ[4]、絶望とは自己の喪失であるとも述べている[6]。しかし、この自己の喪失は自己のみならずとの関係を喪失した事となり[11]、絶望はであるとしている。そして人間は真のキリスト教徒ではない限り、自分自身が絶望について意識している、していないに関わらず実は人間は絶望しているのだとと説いている[4]
その絶望は、本来の自己の姿を知らない無自覚の状態から始まり[12]、更に絶望が深まると「真に自己」であろうとするか否かと言った自覚的な絶望に至る。絶望が絶望を呼び、むしろ絶望の深化が「真の自己」に至る道であるとしている。
第二部では絶望は罪と説いており、この病の対処法としてキリスト教の信仰を挙げ、神の前に自己を捨てることが信仰であり[10]、病の回復に繋がるとしている[6]
また、人間が起こす躓きは大きく三段階に分けられるとしており、
  • 信じもしないが判断も下されない段階
  • キリストを無視し得ないが、信じることもできない段階
  • キリストを否認する段階
キェルケゴールはこの三段階が決定的な死に至る病であると述べている[9]

   ★  ★  ★

ウィキでさえ、ちょっと読むのが面倒臭い記述。
ましてこの哲学書の読破は。

キリスト教的部分は、教徒でない私にはまったく理解不能ですが、死に至る病は絶望であるという部分は文字どおりに理解できるし、まったくその通りではないかと信じます。

パンドラの箱には希望が残っていたという逸話が示すように、人間が生存するために必要なのは、希望。その希望をも逸してしまったときに絶望が訪れる。
絶望は、人が生きていく力を失わせてしまう。
絶望することによって、生きる価値も失われてしまう。
生きる価値を失ってしまうと、もはや死んでいるのと同じ。
身体はまだ生きていても、生きる屍になってしまった人間にとって、そのまま生きているのも、肉体を自ら滅ぼしてしまうのも変わりがないように感じてしまう。
こうして死に至るのだ、と勝手に解釈しているのだが、違うでしょうか?

低空飛行者は2度死ぬ。

entry #12
<サッドマネージメント塾-第12夜>

鬱に陥る理由はさまざまです。
そもそも気分が低い人は、ほんの些細な出来事でひどく落ち込んでしまいます。
普段はとても元気なのに、大きな悲しみに遭遇して鬱状態になる場合もあります。
それ以外にも、なにという理由もなく、社会情勢や景気、自分が置かれている状況など、普段から悶々とした人生を生き、そうしたすべての要素が折り重なって鬱状態に落ち込んでいく人もいます。

鬱状態のことを「低空飛行」と表現した精神科の医師がいました。
うまい表現だと思います。私もこの言い方をよく使います。
低空飛行でも、墜落しない限りは生きていけます。
ただ、地面が近いので、墜落するとなるとあっという間に地面に激突してしまいます。
だから、地面にぶつからないように注意して飛行を続けることが重要です。

高度の高い状態から低空へと降下していく、つまり鬱状態に向かって真っ逆さまに下降しているとき、勢い余って地面に激突する確度が高まります。
これがいわゆる自死につながる第一の危機です。
危ういところで止まって、なんとか低空飛行でもいいから安定に持ち込めれば、しばらくは安心です。

ところが、この低空飛行から高度を上げていくときに、第二の危機が訪れるかもしれません。
とりわけ、静かな安定した状態の鬱から徐々に高度を上げていくのではなく、いきなり躁状態になるような人は危険だと聞きます。
鬱とはうって変わってなんでもできるようなハイな気分が訪れると、勢い余って飛び降りてしまうケースがあるそうです。
静かな鬱からの脱却時でも、上がりそうになってからまた操縦桿を下げてしまい、不安定な状況から墜落してしまうという感じでしょう。

低空飛行に向かうとき、そして安定した低空飛行から抜け出すとき、
人は2度危機に直面しているということを留意しておいてください。


2017年8月27日日曜日

哀しみからの立ち直りに潜む2つの危機。

entry #11

<サッドマネージメント塾-第11夜>

悲しみの淵に立たされたときから立ち直りまでの間に何らかの危機が潜んでいる。
前エントリの最後にそのように書きました。

 ①悲しい事実の否定
 ②悲しい事実に対する怒り
 ③事実を受け入れる前の鬱状態
 ④事実の受容
 ⑤立ち直り

いったい、この心理プロセスのどこに、どのような危機が潜んでいるのでしょうか?
ひとつは怒りの中に潜んでいます。
悲しみの果てに生じる怒りは、おおむね理不尽な怒りです。

こんな悲しい目に遭わせたのは誰なんだ、誰のせいでこんなことになったのだ?
実際に起きた事実とは違う誰かに向けられる怒り。
医師であったり、失われた人の周囲にいる人であったり、あるいは家族であったり。
その誰かの責任ではないにもかかわらず、哀しみに暮れる者は理不尽にも怒りの矛先を彼らに向けてしまうのです。

怒りのあまりに矛先が向けられた人物を殺めてしまう……そこまでサスペンス劇場的なことは滅多にないとしても、理不尽な怒りは後に遺恨を残す事態を引き起こすかもしれません。
人間関係に影響したり、家族関係に亀裂を生じさせたり、くらいのことはありうるでしょう。

さらに問題なのはもう一つの危機。それは自死の危機です。
事実を受け入れた結果、ひどい鬱状態に陥る人もいます。
鬱状態イコール自殺というわけではないのですが、大切な人の死があまりにも受け入れがたいものであったとき、しかしそれを受け入れざるを得ないとわかったとき、そこに現れる鬱は、通常のストレスから生じたものとは比べ物にならないほど深く大きく計り知れない虚無感をもたらすかもしれません。

こうした生への虚しさは自死に繋がる可能性は低くないでしょう。
また、自死の危機は鬱状態のときのみならず、そこから立ち直りをみせるタイミングでも訪れることがあるのです。


悲しみの心理プロセスの理解に意味はあるのか?

entry#10
<サッドマネージメント塾-第10夜>

少し堅い感じのエントリが続きました。
キュープラー・ロスによる「自分の死を受容する5つのプロセス」と、このアイデアをベースにしたと思われる「悲嘆に遭遇したときの心理プロセス」についての2パターンのプロセス。

いずれの場合も大きく分けると、
 ①悲しい事実の否定
 ②悲しい事実に対する怒り
 ③事実を受け入れる前の鬱状態
 ④事実の受容
 ⑤立ち直り

という5つの段階に整理できるのではないでしょうか。

なぜ、このような心理プロセスについての記述が必要なのでしょうか?
哀しい事実と遭遇して理性的でいられる人は少ないでしょう。
混乱し、我を忘れ、どうしていいか途方に暮れた状態で、まともな思考ができなくなってしまう人もいることでしょう。

なぜこんなに深い悲しみの淵にいるのか、
なぜわけのわからない怒りや憎しみがわいてくるのか、
どうしてなにもかもがどうでもよくなってしまうのか。

悲しみに暮れている自分の中にわき起こるさまざまな感情によって、
また新たな混乱に巻き込まれていくかもしれません。
しかし、そうした複雑な感情は決しておかしなことではない、誰にでも普通に起きることなのだ、それを知っておくことが救いになるかもしれません。
あるいは悲しみにくれる人の傍にいる人にとっても、このような心理プロセスが訪れているのだと分かっていれば、心配も半減できるかもしれません。

悲しみの真ん中にいる本人であれ、その傍にいる友人であれ、
悲しみからの回復にはプロセスが必要なのだと知っておくことによって、何か対処の仕方が見つかるかもしれません。

否定や怒り、うつ状態、受容、立ち直りという各プロセスに必要な時間は、人によって、あるいは起きてしまった事実の深さによって短かったり永遠だったりもするでしょう。
それでもいつかは立ち直りが訪れる。

しかし、ここで考えておくべきことは、どこかしらに危機が潜んでいるということです。
どこに、どんな危機が潜んでいるのか?
それは次エントリに譲ることにします。


12段階の悲嘆のプロセス。

entry#9
<サッドマネージメント塾-第9夜>

前エントリでは、平山博士が唱えた悲嘆のプロセス4段階を記しましたが、さらに悲嘆のプロセスを12段階でまとめた学者もいます。生死学を専門とする上智大学名誉教授の哲学者アルフォンス・デーケン博士です。(哲学者アルフォンス・デーケン「よく生き よく笑い よき死と出会う」新潮社 20039月発行)

以下、哲学者アルフォンス・デーケン氏の著作「よく生き よく笑い よき死と出会う」から抜粋された記事を参考に記述しました。


(1)   精神的打撃と麻痺状態(shock and numbness
 愛する人の死に出会うと、その上、その死が唐突であればあるほど、そのショックは大きすぎて、一時的に現実感覚が麻痺状態に陥ります。「頭の中が真っ白になっ て何もわからなくなった」と言われる状態です。これはいわば一時的な情報遮断状態であり、心身のショックを少しでも和らげるために起きる、生体の本能的な防衛機制といわれています。 

 普段はとてもしっかりしていた人がこのような真っ白な状態になったからといって精神的におかしくなったというわけではありません。一過性の現象であり、心配する必要はありませんが、この状態が長引けば問題になってきます。


(2)   否認(denial
 愛する人の死を感情的に受け入れられないばかりか、理性としてもその人の死という事実を否定しようとします。死ぬはずはない、何かの間違いだ、どこかで生きているのだ、そのうち元気な姿を見せるはずだ……などと、思い込みます。

 この現象は、決して頭がおかしくなり、混乱しているわけではありません。相手の死を 感情と理性の両方で受け入れられない時期があることを理解しなければなりません。


(3)   パニック(panic
 身近な人の死に直面した恐怖から、極度のパニック状態に陥ることがあります。これもしばしば見られる現象ですが、一過性であれば問題はありません。


(4)   怒りと不当感(anger and the feeling of injustice
 やがてショックが収まると、悲しみと同時に不当な苦しみを負わされたという激しい怒りに変わります。交通事故や急病による突然の死の後では、この感情が 強く現れます。交通事故などのように、愛する人の命を奪った相手がいる場合には、加害者に対する怒りがいっそう強くなります。

 また、病院で亡くなったりすると、その怒りが看護婦や医者に向かうこともあります。いずれにしても、なぜ自分だけがこんな不幸に遭わなければならないのかという不当感がつきまとい、 自分にひどい仕打ちを与えた運命や神に対する怒りが表出されることが多いのです。

 逆に、この怒りの感情を外に向かって率直にはき出せず、いつまでも怒りを心の中に留めていると、知らずしらずのうちに心身の健康を損ねてしまいます。このような場合、無理に怒りの感情を押し殺さず、上手に発散させることが重要になります。

 また、周囲の人も、悲嘆のプロセスの初期に、怒りや不当感を強く感じる時期があることを理解しておかなければなりません。この怒りの感情表出に対して、周囲の人が反応してしまうと、本人はますますやり場のない怒りの感情を心の内にいだくことになるからです。


(5)   敵意とルサンチマン(うらみ)(hostility and resentment
 周囲の人々や亡くなった人に対して、敵意という形でやり場のない感情をぶつけてきます。特に、最後まで故人のそばにいた医療関係者がその対象となることが多いようです。

 これは、日常的に患者の死を扱う医療者側と、かけがえのない肉親の死に動転している遺族側との間の感情の行き違いによる場合もあります。最近は、医療事故などが問題となり、医療者側と遺族側との間に信頼関係がしっかり形成されていないと、とりわけ医療者側に不信や敵意が生じやすいようです。

 また、時には故人に敵意が向けられる場合があります。本人の不注意や不摂生が、直接的にか間接的にか死亡原因となった場合には、死んだ人の無責任を責めるという形でやり場のない敵意を表現します。


(6)   罪意識(guilt feeling
 悲嘆のプロセスが進むと、自分の過去の行いを悔やみ、自分を責めます。あの人が生きているうちに、もっとこうしてあげればよかったとか、逆に、あの時あんなことをしなければもっと元気でいたかもしれないなどと考えて、後悔の念にさいなまれます。


(7)   空想形成、幻想
 空想の中で、亡くなった人がまだ生きているかのように思いこみ、実生活でもそのように振る舞います。たとえば、夫を亡くした奥さんが、夫が亡くなって1 年以上も経っているのに、毎晩夫の分まで食事を作り、食卓に並べてじっと待っていたりします。また、子供を亡くした両親が、亡くなった子供の部屋を片づけられず、いつ帰ってきてもすぐ着替えられるようにパジャマまで揃えて、何年もそのままにしているということもあります。


(8)   孤独感と抑鬱
 葬儀などの慌ただしさが一段落して、落ち着いてくると、紛らわしようのない独りぼっちの寂しさがひしひしと身に迫ってきます。人によっては、気分が沈んで 引きこもってしまったり、だんだん人間嫌いになったりします。これもたいていの人が通らなければならない重要な悲嘆のプロセスです。

 しかし、この時期が長 引いてしまうと、健康を損なってしまいます。周囲の暖かい援助が必要で、早くこの時期を乗り越えることが大切です。


(9)   精神的混乱とアパシー
 愛する人を失った空虚さから生活目標を見失い、どうしていいかわからなくなり、全くやる気をなくした状態に陥ります。これも正常な悲嘆のプロセスの一部で すが、この状態が長引くようだと健康を損ねてしまいます。その場合には、精神科医やカウンセラーなどの専門家の援助が必要となります。


(10) あきらめ―受容
 日本語の「あきらめる」という言葉には、「明らかにする」という意味があり、この段階になると、愛する人はもうこの世にはいないというつらい現実を「あきらか」に見つめて、相手の死を受け入れようとする努力が始まります。受容というのは、ただ運命に押し流されるのではなく、事実を積極的に受け入れていこう とすることです。


(11) 新しい希望
 ユーモアと笑いが再びよみがえってきて、次の新しい生活への一歩を踏み出そうという希望が生まれます。健康的な日常生活を取り返し、愛する人の死を現実の生活から切り離すことが出来るようになります。


(12) 立ち直りの段階
 悲嘆のプロセスを乗り越えるというのは、愛する人を失う以前の自分に戻ることではなく、苦痛に満ちた喪失体験を通じて新しいアイデンティティを獲得することを意味しています。それにより、悲しみを乗り越え、より成熟した人間へと成長することが出来るのです。

(補足)悲嘆を体験する人がすべてこれらの12段階を通るわけでもなく、また、必ずしもこの順序通りに進行するとは限りません。時に、複数の段階が重なって現れることもあり、だいたい立ち直るまで最低1年くらいはかかります。



 いかがでしたか。先のキュープラー・ロスの5つのプロセスよりもさらに細やかなプロセスの記述は、非常にわかりやすく、そのような段階があるだろうことに共感を覚えます。いずれにしても、大きな哀しみと遭遇してしまった人間は、我を忘れ、否定にかかり、やがて怒りを感じ、このようなプロセスを経て乗り越えていくのだという流れには共通したものがあるようです。

悲嘆における4つのプロセス。

entry#8
<サッドマネージメント塾-第8夜>

グリーフワークという言葉があります。
グリーフ(grief)とは、死別などによる深い悲しみ・悲嘆、後悔、絶望と訳されています。人の生においてかけがえのない大切な人や時間を失ったときの、深い悲しみを意味します。

このグリーフ=悲嘆に陥ったときの人間心理を、様々な学者が分析しています。
主には、先にエントリしたキューブラー・ロスの死を受容するプロセスと同様な考え方に立しているようです。

たとえば、精神科医でクリスチャンでもある故平山正実博士は、近しい者と死別した時に現れる悲嘆のプロセスを4段階に整理しています。
また、これらの段階は1から順番ということでもなく、入れ替わって出現することもあるといいます。

悲嘆のプロセス4段階 

1.ショック(ストレス)

感覚が麻痺し、涙も出ない、感情が湧かない、足が地につかない状態。
何も考えられず、混乱した精神状態の中で何にも集中できない。
食べる、眠るなどの、簡単な日常生活のことさえもできなくなってしまう。

2.怒りの段階(防衛的退行)

悲しみ、罪責感、怒り、責任転嫁が現れる。
深い悲しみの中で、故人や周囲の人を責め、そう考えてしまう自分自身をも責める気持ちが混在する。
故人との思い出にふけり、現実を容認できない。
夢想や空想と現実の区別がつかなくなっている。

3.抑うつの段階(承認)


絶望感、深い抑鬱、空虚感、無表情、希死念慮。
周囲のすべてのものへの関心がなくなり、自分を価値のない人間だと感じる。
適応能力が欠損し、外出せず、引きこもり状態になる。

4.立ち直りの段階(適応と変化)

徐すこしづつエネルギーが湧いて、新しい希望が見えはじめる。
周囲との関わりをもっと大切にしようと考える。

故人の死の現実を認めはじめる段階。


以上、キューブラー・ロスが提唱した「自己の死を受け入れる5つのプロセス」と非常に近しい内容のものですね。
こうしたいくつかの段階が順不同で現れて、最終的には4の立ち直り段階に到達するという説です。



2017年8月9日水曜日

死を受容する人の5つのプロセス。

entry#7
<サッドマネージメント塾-第7夜>

人間にとって最大の危機は自分の死であり、それを知ることは最大の悲しみだと言って間違いないでしょう。
本エントリーでは、自己の死について、それを受け入れるプロセスというものについて記します。

死生学(サナトロジー)で有名な精神科医キューブラー・ロス博士は、癌末期患者など何千人もの死にゆく人々にインタビューを行い、その考察を記録した著作「死ぬ瞬間~死とその過程について」において、自ら考案した死を受け入れる5段階のプロセスキューブラー=ロスモデル」を提唱しています。

1.否認・隔離:自分が死ぬということは嘘ではないのかと疑う段階。
自らの死を宣告されると、一時的なショック状態になり、やがて最初の麻痺したような感覚が薄れて落ち着きを取り戻す頃には、「自分であるはずがない」と思うようになる。直視できない悲しい事実から身を守るための、一種の自己防衛のメカニズムだといえる。

2.怒りなぜ自分が死ななければならないのかという怒りを周囲に向ける段階。
自己の死を認めたくないという否認の感情を持ち続けることができなくなると、今度は神や他の人間に対して、怒りや恨み、憤りという感情が現れる。この怒りはあらゆる方向にあたりかまわず見当違いに向けられ、周囲の者は対応に苦慮する。

3.取引:なんとか死なずにすむように取引を試みる段階。何かにすがろうという心理状態。
「避けられない結果」を先に延ばすべくなんとか交渉しようとする段階に入っていく。経験的に、善行を行えば報われるかもしれないということから、良い行いと引き換えに延命を願う。ほとんどの場合、取引相手は神であり、その内容は秘密にされる。

4.抑うつなにもできなくなる段階。
病状が進んで、もはや事実を否定できなくなる。健康を失い、経済においても財産を失い、職を失い、これから家族さえも別れなければならない現実によって、抑鬱状態に陥る。この抑鬱には、喪失した事柄に反応して起きるものと、これからさらに失っていく事柄に準備するためのものがある。喪失したものに反応しての抑鬱は、喪失感を和らげてあげることによって緩和されるが、これから失うであろうものに準備するための抑鬱は、励ましようがないし、励ましてはいけない。間違いなく愛する者を失うことは避けられないのに、哀しむなと言うことには意味がない。むしろ、哀しむことを許し、共有することによって死ぬ準備の覚悟が定まっていく。

5.受容最終的に自分が死に行くことを受け入れる段階である。
さまざまな感情を持つ段階を過ぎて、やがて最後の時が近づくのを静観するようになる。次第に長い時間眠っていたいと思うようになる。この眠りは、抑鬱や逃避のためでも、諦念や絶望による放棄のためでもなく、まさに最後の休息に近いもの。感情が欠落した状態で、周りに対する関心も薄れていく。ただ、誰かそばにいてくれて、手の一つでも握ってもらうことによって、最後までひとりぼっちではないと感じて慰められる。

以上、キューブラー・ロスの著作「死ぬ瞬間」からの要約的抜粋です。

エリザベス・キューブラー=ロス
独:Elisabeth Kübler-Ross、1926年7月8日 - 2004年8月24日
死と死ぬことについての画期的な本(『死ぬ瞬間』,1969年)の著者として知られる精神科医
著書において、彼女は初めて今日では「死の受容のプロセス」と呼ばれている「キューブラー=ロスモデル」を提唱している。まさに死の間際にある患者とのかかわりや悲哀(Grief)の考察や悲哀の仕事(Grief work)についての先駆的な業績で知られる。





2017年8月4日金曜日

悲しみをうまく昇華させる方法。

entry #6
<サッドマネージメント塾-第6夜>

悲しみと出会ってしまったとき、その悲しみから逃れる方法はあるのでしょうか?

entry #1で書いたように、泣くことはひとつの対処方法です。
思い切り泣くことによって、哀しみの気持ちが流れ落ちて、上手く昇華していき、泣き終わった後には思いの外スッキリする、そういう経験は誰しもあることでしょう。

しかしそれでも悲しみが消え去るわけではありません。

”時間ぐすり”などと言いますが、時とともに悲しみの感情が薄れていくのを待つしかありません。
つまりそれは、忘却という記憶のメカニズムによるものです。

昨日も今日も、明日になっても、自分自身は変わらないと誰もが思っているでしょうが、
身体の細胞が日々入れ替わっていくように、人の心もまた少しずつ変化していきます。

悲しみは、哀しみに、愛しみに、かなしみに、カナシミに、ナシミ、シミに……

そうして、悲しい思い出に変化した記憶は、やがて懐かしいものへと変わっていくのですね。

この時間ぐすりの時間は、増やしたり早めたりすることはできませんが、効果を高める方法はあります。
忘却を早め、変化を早送りできるのです。
それはとても簡単なこと。
何かに熱中するのです。
熱中できる何かを見つけるのです。
我を忘れる、という言葉がありますが、そのくらい何かに熱中できれば、早い段階で哀しみは遠ざかっていることに気づきます。

なあんだ、そんなこと、言われなくても〜そう思われたかもわかりませんが、
つまり、そのくらい簡単で当たり前の方法が、悲しみを昇華させるよい方法なのですね。


悲しみからくる不都合なもの。

entry #5
<サッドマネージメント塾-第5夜>

悲しみは唐突にやってきます。

一年前はあんなに幸せだったのに。
先月はあんなに笑っていたのに。
昨日は元気に挨拶したのに。

突然の雨のように、予想外の嵐のように、
想定外の災害が訪れるように、悲しみも訪れるのです。

そのとき、人はどうなるのでしょうか。

胸の真ん中あたりでずーんと何かが引いていく感じ。
血管の中の液体がすーっと下がっていく感じ。
頭の仲が真っ白になって、意識が曖昧になる。

そして、
取り乱す。
うずくまる。
身体中が震える。
震えが止まらなくなる。
嗚咽。
泣く。
泣き叫ぶ。
喚く。
動き回る。
発作のような暴力。
意識を失う。
我を失う。
あるいは、押し黙ったまま塑像になる。

襲ってきた出来事の重さによって、当事者の性質によって、
悲しみの大きさは異なり、それがもたらす反応もさまざまでしょう。

しかし、どのような行動が現れようと、こころの中で起きている悲しみの種類はほとんど変わらないでしょう。
とにかくたった今まで保持していた幸福感が180度天地をひっくり返された気持ち。
平常だった血管の太さが変わり、血流の速度が早まり、脳細胞を結ぶシナプスが悲しみ独自の働きを始めます。
こころが縮こまると同時に身体も大きく変化してしまうのです。

そうした心身の変化に対処するために、様々な行動が表出するわけで、
哀しみ直後の行動は、人それぞれ、どのよう出会ってもいいのです。
その人個人の対処方法なのですから。

問題はそのあとです。
ひとしきり対処行動をとることによって、心と体が上手く折り合えばいいのですが、
時としていつまでも平常に戻れないこともあるのですね。

悲しみがもたらす不都合なものとは、悲しみの衝撃を上手く受け止められない、
一旦受け止めたつもりでも、そのあと折り合いがつかず、元の自分に戻れない。

こうした経過からこころの病気に陥ったり、身体に以上が生じたり、
その流れでより悪い事態が引き起こされたり、そうして事故や事件が起きてしまうのではないでしょうか。


2017年8月3日木曜日

悲しみを引き起こすもの。

entry #4
<サッドマネージメント塾-第4夜>

人生に悲しみはつきものだ。
誰が言ったわけではありませんが、まったくその通りだと思います。
人生の中で一度も悲しみを味わったことがないなんていう人が存在するのでしょうか?
この世に生を受けて生きていく限り、悲しみと出会ってしまうのは生き物の宿命です。

具体的に、「悲しみ」を誘発するのはどんなことなのでしょう。

まず、絶対に避けられないのが死別です。
親との死別。
子との死別。
親や子に準じる者、連合いや兄弟、友人、ペットとの死別。

次に考えられるのは喪失です。
喪失とは、いわばモノや事柄との死別。
命より大切な何かを失ってしまう。
家や土地、財産を失ってしまう。
長年かかって築きあげてきた地位を失う。
友の裏切り。
配偶者の裏切り。
夫婦や親友、親子関係など、人間関係の喪失。

そしてもっと深刻な悲しみを引き起こすのが絶望。
絶望とは「希望を失う」という意味ですので、上記「喪失」に含まれるものではありますが、とりわけ別項目にすべきほど重要なものです。
夢や希望の喪失。
病などによる自己の余命宣告。
上記なんらかを喪失したことによる絶望。
死への不安や恐怖による精神喪失。
形而上(哲学的)への執着が生む生への諦念。

今はこのくらいしか思い浮かびませんが、人間に悲しみをもたらすことは、他にもたくさんあるに違いありません。

大括りに書いてもこんな感じですから、小さな誘引まで細かく書き出すと、実にたくさんの哀しみ誘因がありそうです。

そして、これらのどれ一つをとっても違わないのは、
起きてしまった場合にはおそらく二度と取り戻せないし、
だからこそ、悲しみが誘発されるのだ、ということです。

さて、みなさん、こうした悲しみがやってきた時、あなたならどう向き合いますか?



哀しみにマネージメントは必要か?

entry #3
<サッドマネージメント塾-第3夜>

Anger Managementにインスパイアされて、Sad Managementなどと言いだしましたが、果たして、Sad(哀しみ・悲しみ)にマネージメントなど必要なのでしょうか?

怒りの場合、社会において、それが人を傷つける言動になったり、暴力を誘発させたり、ひどくなれば争いにまで発展する可能性があるわけで、そうしたことを防止する意味でも、怒りをコントロールする技は必要かもしれません。

ところが悲しみについてはどうでしょうか?

悲しみは誰かを傷つけるでしょうか。
いや、むしろ、悲しみは誰かから傷つけられた時に起きる感情です。
だから、外に向けてというよりは、自分自身を守るために哀しみをコントロールする術が必要なのかもしれません。

そして、悲しみは暴力や争いを引き起こすのでしょうか?
直接的にはそのようには結びつきません。
しかし、あまりにも深い悲しみに、心身ともに傷ついてしまった人間のこころは、
やがて怒りの炎へと変化してしまう可能性はあります。
シンプルに湧き起こった怒りよりも、悲しみ転じて燃え盛る怒りは、強烈なものになってしまう!というような物語はあるのではないですか?
物語的には復讐劇なんていうものがそれですね。
シェークスピアの「ハムレット」や、第88回アカデミー賞受賞の「レヴェ何と甦りし者」
は、悲しみの果てに復讐を遂げるお話です。

こう考えると、悲しみが暴力に直結するわけではありませんが、怒りの火種となる悲しみをマネージメントすることは必要なのかもしれません。

復讐劇なんて、話はいささか飛躍しましたが、人間にとって悲しみを抱くことは、なんらかマイナスの方向に転じてしまうことは想像するに難しくありません。

悲しみのあまり、会社に行けなくなってしまった。
悲しみのあまり、家族が崩壊してしまった。
悲しみのあまり、頭がおかしくなってしまった。
悲しみのあまり、性格が歪んでしまった。
悲しみのあまり、人生が狂ってしまった。
悲しみの果てに、身を投げてしまった。

想像の世界ではこのようなことが考えられますが、世の中で起きている様々な事件や悲劇の裏には、このようなことが結構あるのではないかと思います。
ということは、今は関係ないと思っている私にとって、他人事ではないような気がしてきます。

実際のところ、昨年私自身が体験したことですが、十四年間可愛がってきた愛犬を病気で亡くしました。
人でも動物でも、いつかは死んでしまうことがわかっていても、いざ死を迎えてしまうと、その悲しみははかり知れません。
直後には四六時中亡くした愛犬のことを想い、一年をすぎた今でも、折に触れて彼女のことを思い出しては当時の悲しみが舞い戻ってきます。
愛犬を亡くした悲しみですら、無気力や虚脱感でいっぱいになりました。

私の場合は徐々に立ち直ってきていますが、未だに犬を飼う気になれません。
私などと違ってもっと繊細な性格の人であれば、そのままこころの病に陥ってしまうこともあるかもしれません。

そうした場合にはメンタルケアが必要になるでしょう。

Sad Managementとは、こうした、悲しみに囚われた人を救済するためにあるべきもの、
私はそう考えます。


哀しみと悲しみについて。

entry #2
<サッドマネージメント塾-第2夜>

ブログタイトルは「悲しい・・・」ですが、本文では哀しいと書いたりしています。
はて、悲しみと哀しみは違うのでしょうか?
ググってみると、大辞林第三版では以下の通り。

悲しみ・哀しみ・愛しみ

① かなしむこと。 「 -に打ち沈む」 ② いとおしむこと。また、あわれむこと。 「祖子おやこの-深き事を知しめんが為也/今昔 4」
大辞林 第三版


つまり、悲しみも哀しみも、そして愛しみというものもあって、すべて同じ意味なのですね。

知恵袋さんの回答では、
「悲しみ」は「哀しみ」を含む「大きい語」とし、
「哀しみ」のほうは、より個人的で「センチメンタル(感傷的)」な思い入れを表現したいときに使われることが多い。
などと答えられています。

また、他のサイトでは、
「悲」は悲痛に通じ、広くかなしみ一般であり、
「哀」は死者に対する哀告の儀礼としています。

さらに、映画の邦題や、物語的には、一般的な「悲しみ」よりも何か意味ありげで目立つ「哀しみ」が使われることが多いようです。

ということで、基本的には悲しみも哀しみも同じ意味、
本ブログでは、タイトル通りに基本悲しいを使いますが、
時には哀しいの方で表現したりします。
でも、ニュアンスの違いだけで、基本的には同じ意味であると考えてくださいね。


涙の止め方。

entry #1
<サッドマネージメント塾-第1夜>

人は悲しくなると涙が出ます。
希には涙しない人もいますが。

子供が泣くと、泣いたらいかん! と大人は言います。
大人が泣いても、泣いたらダメ、泣かないで 、と周りの人は言います。

泣くのを止めようとするのは、つまり励ましの代替行為。
泣くのをやめたら、悲しみが消えるような気がするのですね。
これは、後でふれますが、あながち間違ってはいない。
それに、目の前の人の涙は、伝染して、こちらまで辛くなるから、やめてもらいたいという気持ちも働くのではないでしょうか?

さて、このように、悲しいときに流れる涙は良くないものでしょうか?

no。そんなことはない。

あなたもきっと、そう思いますよね。

痛みが、体を傷つけるものから守るためのアテンションであるように、
涙は、おそらく、傷ついたこころを癒すための緩和剤なのだと思います。

悲しいなら、泣きなさい。
もっと泣いて、泣いて。
思う存分に泣くんですよ。

私はこれが本当の慰めだと考えます。

いくら泣いていても、泣き止まない人はいない。
涙が枯れるまで、と言いますが、本当に体液の全てが涙に変わって枯れ果ててしまった人の話は聞いたことがありません。

涙は、いつか止まり、気分はいくぶんすっきりとする。
涙には浄化作用がある、そういう人もいますね。

泣きたいときには思う存分に泣く。


ブログタイトル通り、
Sad  anagementの第一歩はこれです。

ところで、泣くのをやめさせることへの一理について。

人は、悲しいから泣くのでしょうか。
それとも、涙が出るから悲しくなるのでしょうか。

そりゃあ前者、悲しいから涙が出るに決まっている。
ほとんどの人がそう思うでしょう。

ところが、そうでもないらしいです。

認知心理学では、涙が出ることによって悲しみの感情が現れる、ということも実証されているそうです(ジェームズ・ランゲ説)。

肉体の動きによって、感情を制御することができるのです。
だから、涙を止めることができれば、悲しみも減ります。

たとえば、泣いている人をくすぐったり、ぴょんぴょん跳ねさせたり、
とにかく泣けない状態にしてしまい、涙が止まると、少なくとも一時的には悲しみの表情は薄れます。
泣きながらくすぐられている、泣きながら飛び跳ねている、
そんな人は見たことがありませんね。

ただし、一時的に涙を止めて、悲しみを中断できたとしても、
悲しみはまた込み上げてきて、涙が溢れてきます。

やはり、涙が自然に止まるまで、枯れ果てるまで、泣いて昇華させたほうがいいのではないでしょうか。




Sad Management考

Introduction-2
(サッドマネージメント考その2)

Sad Management。
これは、このブログのサブタイトルです。

さて、最近みんなが気になっているワードが、anger managementと言う言葉。
アンガーマネージメントとは、和訳通り、怒りをマネージメントしようというもの。
人間社会の中で、不用意な怒りを発動することなく、周囲の人々と上手に共存していくための、いわばアサーション作法です。
世間には日本アンガーマネージメント協会という団体も存在し、
協会は、アンガー マネージメントファシリテーターを育成して、幸福な社会を醸成しようと考えているのだと思います。

不用意な怒りを自己管理する、それは社会生活において大切なスキルだと思いますが、
他の感情についてはどうなのでしょうか。
喜怒哀楽という四文字熟語が表す四つの感情。
喜と楽については、とりあえずおいておくとして、見逃せないのが怒と哀。
怒ーアンガーマネージメントはすでに有名だけど、
哀ーサッドマネージメントってあるのでしょうか?

ググって みました。
ありませんね。

ならば。と私が作ってみることにしたわけです。

なんの後ろ盾もお墨付きも、理論体系もありません。
だから"My(私設)"というものですが、そこのところは忖度お願いします。

Sadをmanagementすること、その意味、その方法を、一緒に考えていきませんか?

「悲しいときは泣く」考

Introduction
(サッドマネージメント考)

悲しいときは泣く。
本ブログのタイトルですが、なんだか、もの悲しい言葉に聞こえるかもしれませんね。
それにちょっと小説か映画タイトルのパクリっぽくもありますし。
でも、そこのところはご容赦ください。

本論に戻ります。
「悲しい」という言葉はネガティヴですが、その「向こう側」にあるものは、決してネガティブではありません。

時として、人間に訪れる悲しいという感情。

大切な人を亡くした。
ひどい災難にあった。
夢や希望を打ち砕かれた。
他者からひどい仕打ちをされた。
大事な財産を失った……。

長く生きれば生きるほど、
いいことと出会うチャンスが増えるのと同じくらい、
悲しみと出会ってしまう可能性も高まります。

でも、それは普通のことなんです。

よほど感情のない人工生命体でもない限り、
生きていれば、悲しいことを経験してしまうのは当たり前のことなんです。

では、訪れてしまった悲しみとどう対峙するか。
胸が押しつぶされそうなほどの哀しみとどう向き合い、乗り越えていくのか。

本ブログ「悲しいときは泣いて〜SadManagement塾」は、
そのような、悲しみを乗り越え、
その先にあるものを手にしたい人に向けてお話しします。