2017年9月30日土曜日

希死念慮という言葉。

entry #19 
<サッドマネージメント塾-第19夜>

カウンセリングを学び、サッドマネージメントについて考えているうちに、
「希死念慮」という言葉を知りました。
これまでは聞いたこともなかった言葉です。

希死念慮

いったいこれは、どう言う意味?

希死念慮とは、
「死にたい」
「死んでしまいたい」
「死ねばきっと楽になれる」
「いっそ、死んだほうがいい…」

などと漠然と自死について考えること全般をいいます。

もっと具体的に死に方を考えたり、どうやって死ぬかという方法にを調べ始めたり、
実際に死ぬという計画性が伴うと「自殺企図」という別の概念になるそうです。

つまり、希死念慮に比べると、自殺企図はずっと自死のを実現する可能性が高いということですから、危険度は高まります。
希死念慮という段階であれば、誰だって人生の中で一度くらいは頭の中をよぎることはありえることですよね。と考えると、自殺企図に比べれば心配するほどではないと考えられます。

とはいっても、「死んでしまいたい」などの希死念慮が浮かんでくるということは、かなり生きることに辛さを感じているということでしょうから、ほっておいていいというものでもないでしょう。誰かに、何かに・・・死という概念に救いを求めているとも考えられますから、やはり何かのケアが必要なのです。

ケアが必要と言われても、いったいどうすればいいのでしょうか。

こうすれば希死念慮は消える!
残念ながらそんな薬も魔法もありません。
希死念慮に至る道筋は人によって違うからです。

しかし、共通して言えることは、「死にたい」と思うのは、
「生きていたくない」、生きている意味を見失っているということです。
もしくは、生きていることに絶望して、もはや死を選ぶしかないのではないかと思いはじめます。

最初はなんとなく「死にたい」であった思いは、
やがて思い込みの深みにはまっていきます。
どんどん視野が狭くなっていくのです。
狭くなってしまった視野は、本人の力ではなかなか元には戻せないことがほとんどです。

ということを前提に考えると、ケアの方向はこんなことかもしれません。
1.一人にしない。孤立感を和らげる。
2.なぜ死にたいと思うのか、原因を聞く。
3.死にたいくらい辛い気持ちを共有してあげる。
4.一人じゃない、仲間がいることをわからせる。
5.死ぬ以外の選択肢を共に探す。

とにかく、孤立感を和らげ、仲間がいることで狭くなった視野を広げていく努力をするということが「大事なのだと思います。

最後に、「死にたい」と口には出さないけれども、希死念慮を抱えているケースもあると思います。

たとえば、
・口数が極端に減った。
・ぼんやりと空ばかり見つめる姿が増えた。
・人と関わることを嫌うようになった。
・仕事が手につかない様子がわかる。
というような人が周囲にいたら、なにか辛そうだけど、話を聞いてあげようか? と声をかけてあげる必要があると考えられますね。

今回は少し重いテーマでした。




2017年9月25日月曜日

人はなぜ怒り、人はなぜ悲しむのか。

entry #18
<サッドマネージメント塾-第18夜>

妻や子供に対して怒りの言葉を爆発させるお父さん。
部下に対して口角泡を吹いて怒鳴り散らす上司。
恋人に怒りを露わにする男女。

彼らはどうして、何を怒っているのでしょう。
時には国家の代表がマスコミの前で怒りを発することもありますね。
すべての怒りは共通した理由によるものだと思いませんか?

そうです。
自分の思うようにならないから怒っているのです。

 「進学しろって言ったじゃないか!」
「どうして売り上げを上げられないんだ!」
 「約束したじゃないのっ」
「T島は我が国家の領土だ!」

 人は、自分の思い通りにならない事柄に対して憤りを感じて怒り出す。
その怒りに相手が脅威を感じたら、怒りの前にひれ伏し、結果怒り主の思いは実現に向かうことになれば、怒りは収まっていく。

それはジャングルの王者が弱者を威嚇するのとまったく同じだ。
しかし、人間社会では、弱肉強食に逆らう人間が現れるので、怒りが徒労に帰することも往往にして起きるのです。
そんなに真っ赤になって怒っても仕方ないじゃない、と諌められることになるのですね。 

では、悲しみの場合はどうなのでしょう。 

「息子が受験に失敗した。あんなに頑張っていたのに!」
「大事なお得意先を失ってしまった」
「別れ話をされるなんて」
「裏金工作が暴露されてしまった!」 

怒りと似ているというか、思い通りにならないということが原因であるという側面は同じようです。
違うのは、おおむね結果に対してわき起こるということ。
何か大切なものを失ってしまった、失うことが決定的になった、という取り返しのつかない 事態に接した時に、嘆き、悲しみという感情が発生するのではないでしょうか。

怒りは、 まだなんとかできる、という事態に対して力づくで対処しようとする感情。
悲しみは、もはやどうしようもない、諦めるしかないが諦めきれない、という事態に直面して陥る情緒。

こう分析できると思いませんか?
こう考えると、怒りよりも悲しみの方が深い。
怒りにはまだ未来が見え隠れしているが、悲しみにはそれがないんですね。 
アンガーマネージメントは怒りをコントロールすることによって、もっと効果的に未来を実現できますよ、という処世の戦略術。
しかし、悲しみに未来がないとすれば、サッドマネージメントになんの意味があるのか。

サッドマネージメントにはもっと重要な意味があります。
目の前の事態に対する処方はできません。
しかし、その先にある人生を見据えた時、悲しみをどう乗り越えるかが重要な意味を持つと思うのですが、いかがでしょうか。

 

2017年9月24日日曜日

memento mori〜自分の死を忘れるな

entry #17
<サッドマネージメント塾-第17夜>

メメント・モリといえば、1983年に出版されたベストセラー、写真家藤原新也の写真集が有名だが、当時私はその意味をあまり考えませんでした。
「死を想え」という副題が付いているにもかかわらずです。 
今になって、メメント・モリとは、ラテン語で「いつか死ぬことを忘れるな」という言葉だと認識しました。 

(以下wikipediaより抜粋)
メメント・モリ(羅: memento mori)は、ラテン語で「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」という意味の警句。「死を記憶せよ」などと訳され、芸術作品のモチーフとして広く使われる。 京都学派の哲学者として知られる田辺元は最晩年に「死の哲学(死の弁証法)」と呼ばれる哲学を構想した。その哲学の概略を示すために発表された論文が「メメント モリ」と題されている。田辺はこの論文の中で現代を「死の時代」と規定した。近代人が生きることの快楽と喜びを無反省に追求し続けた結果、生を豊かにするはずの科学技術が却って人間の生を脅かすという自己矛盾的事態を招来し、現代人をニヒリズムに追い込んだというのである。田辺はこの窮状を打破するために、メメント・モリの戒告(「死を忘れるな」)に立ち返るべきだと主張する[1]。  


「世界中に存在している人が死ぬ割合はどのくらい?」 


そう問われたらなんと答えますか?

半分くらい?
もっと多い?

答えは100%ですね。

人は、いや、生き物はすべてみんないつか死ぬのです。
その事実はみんなが知っているはずなのに、誰一人として自分のこととは思えない。
誰一人として、は言い過ぎましたが、でもわかっていても自分だけは死なないのではないか?と考えてしまうし、そう思いたいのではありませんか?

若い自分から死を意識している人がいるとすれば、哲学者かかなり屈折した人でしょう。
ところが親や身近な知人が逝き、自分自身も歳をとってくると、どんどん死が身近に感じられるようになります。

60歳を過ぎると自分の親がいくつで亡くなったか、
現在の平均寿命は何歳かなどと調べ、その年齢までを指折り数えてしまいます。
あと何回桜が見られるだろう? 
あと何回お節料理が食べられるのだろう? 
そんなことを考えてしまうのですが、それでもまだ自分が死ぬその時を想像できません。

それはたぶん、そんなことを考えたり想像してもどうしようもないからです。
もし、なんとか自分の死ぬ姿を想像できたとしても、
それは決して喜ばしいものではありませんね。
悲しく、寂しくなってしまうだけです。

メメント・モリ。

自分がいつか死ぬことを理解しても、それほど悲しいという感情はわいてきません。
むしろ、その時がくるまでにしたいことを考えはじめ、残りの人生をどう過ごそうかとか、人によっては今際の床で言うべき最後の言葉を決めておこうと思ったり、つまり、「死に方」と言うよりは、「死ぬまでの生き方」に向かい合うようになるのです。
それこそが、memento moriという言葉の真意なのかも知れません。

 

2017年9月12日火曜日

自己不一致という哀しみ。

entry #16
<サッドマネージメント塾-第16夜>

日本における心理カウンセリングの父と呼ばれているカール・ロジャース(Carl Ransom Rogers, 1902 - 1987)の言葉で、「自己一致(congruence)」という考え方があります。これは、カウンセラーにとって重要な3つの基本的態度の一番目に掲げられているものです。

自己一致とは、自分の内面にあるものと、外に向けて体現しているものが一致しているということです。言い換えると、内も外も一致してありのままの自分であるということ。カウンセリングするものにとって、ここに矛盾点があってはいけないとロジャースは説いています。

ここでは、カウンセリングの話をするわけではないので、ロジャースの話はここまでとしておきますが、自己一致転じて自己不一致(incongruence)という問題について考えてみました。

自己不一致とは、自己一致の逆、つまり、自分の内面と体現するものが一致していないということです。もう少し かみくだいてみましょう。

自分の内面で感じていることとは、たとえば

・自分はどういう人間か
・何をしたいと思っているのか
・誰のことが好きで、誰のことは嫌だと思っているのか
・どんな夢を描いているのか
・どうなりたいと思っているのか
・どんな人間になりたいのか

思索の数だけ、あるいは感じているだけ、さまざまな数え切れない内面があると思います。
ところが、その自己の内面を自分自身では認識できていないことがあります。

普段、そんなに自分の内面について深く考えたりしていないでしょうし、なんとなく好感を持っている相手のことをどこまで好きかなんて意識していないこともあるでしょう。
自己認識ですらそういうことですから、その内面がまっすぐに行動や言動に現れていないことだってあるでしょう。

それこそ、「ありのままの自分」で生きていて、内面と体現しているものがほとんど一致しているというまっすぐな人もいることでしょう。しかし、私たちは自分で思っていることを実現するために行動しているつもりですし、実際にはそうはなっていないとしても、自分ではそうできていると信じているのではないでしょうか。

さて、ここからが本題ですが、悲しみは喪失感によって引き起こされると書いてきました。喪失感とは、大切な人や大切な何かを失うということです。

この、大切な人や何かは、自分の内面でそう思っている、信じている事柄です。
大切だと思っているからこそ、その人やものを守り育み、愛しているのですよね。
ところが、何者かによってそれが阻害されてしまう。剥奪されてしまう。
自分の内面にあるものを実現して一致している外側の環境が壊されてしまう、
つまり自己一致している事柄が無理やり不一致状態にされてしまうわけです。

わかりやすく言えば、「こうでありたい」と思っているのに、自分の行動とは関係ないなんらかの外的要因によって、そうではない状態になってしまった! ということですね。

そのような境遇に置かれてしまった人間は、落ち込んで悲しみに襲われるのではないでしょうか。悲しみよりも怒りを覚える人もいるかもしれません。しかし怒りに満ちた人も、いくら怒ってもどうしようもないことがわかると、やがて悲しみの淵に立たされることになるのです。

思い出してみましょう。
怒りを感じるのはどんな時か。
悲しみに満ちるのはどんな時か。

およそ、自分の望みが、望みとまでいかなくても「こうあってほしい、こうあるべき」と思っていたことが実現できなかった、あるいは絶たれてしまった時ではないですか?

死別も喪失も、それによって自分の内面で描いていたことが、実現できなくなるから哀しみにつながる。すべての悲しみは、このような自己不一致によるものであると思うのですが、違うでしょうか?






2017年9月10日日曜日

悲しみはいくつある?〜喪失から生まれる9つの感情。

entry #15
<サッドマネージメント塾-第15夜>

悲しみの対象、癒しを考える上で、もう少し「悲しみ」について考察が必要です。
すでにentry#4では「悲しみを引き起こすもの。」について、悲しみの原因には、"死別""喪失""絶望"の、大きく3つが考えられると書きました。

死別は、愛する人を失うことですから、喪失に含まれます。さらに、喪失にすら至らない喪失、つまり得られないということもありますね。永遠の片想いとか、子供ができないとか、お金が手に入らないとか。

絶望についても、夢や希望、生き甲斐、自分の存在意義、尊厳、生命、命より大切なもの、そんなものを失って、もはやどうしようもない深い闇に落ち込んだときに生じるとすれば、これもまた大きく言えば喪失によるもにです。

まとめると、悲しみは、大切な何かを失ってしまったとき、あるいは大切な何かが得られなかったときの感情ということです。

では、悲しみにはどんな種類があるでしょうか。

◾️喪失感 死別や破産、形あるものの喪失
大切な人や財産、大切にしている事柄など、主には形あるものを失ったときに感じる言いようのない根本的な哀しみ。

◾️孤独感 人間関係、社会関係の喪失
この世にたった一人孤立している、友人どころか知人も仲間も、助けてくれる人も理解してくれる人もいないという悲しみ。

◾️寂寥感 人間関係や心の拠り所の喪失
仲間がいないわけではないが、どうせ理解されない、孤独感とまでもいかない寂しさ。荒地や海などの心象風景によってさえ呼び起こされる状態のときの感情。

◾️不信感   裏切りや疑惑による信頼関係の喪失
信じていた人に裏切られた、裏切られるかもしれないと思うときに感じる喪失感。

◾️疎外感   居場所や存在感の喪失
自分では孤立しているつもりはないのに、周囲から居場所を奪われ、存在を否定されたときの感情。

◾️非承認感   承認欲求が叶わないことによる自尊心・プライドの喪失
誰かに認められたい、わかってもらいたい、自己の能力や場合によっては存在そのものを認めて欲しいという承認欲求が叶わないときにわき起こる悲しみ。

◾️挫折感   自己の価値や存在感の喪失、自己崩壊感
夢や望みが断たれ、自分の価値を低く見たり、自分の存在を否定している状態の感情。

◾️虚無感・空虚感   絶望に至る自己の喪失
挫折や喪失をきっかけに、もう何もかもが空っぽになってしまった、虚しいと思う絶望一歩手前の感情。

◾️絶望感 夢や希望、生き甲斐、存在意義など、自己の喪失
この世のすべてに意味を見出せなくなってしまった、死に至る感情。通常は喪失感に由来することが多いが、哲学的な形而上の思惑に起因する場合もある。

どうでしょう。重複する箇所もあるかもしれません。上記に含まれない種類の悲しみが見つかったら、コメント欄で教えてください。


実はもうひとつ、「自己不一致による悲しみ」についても思い至ったのですが、これはすべてを包括するものとして、別枠にしました。詳しくは次のエントリーに書きますが、上にまとめた悲しみは、どの種類のものもすべて、理想と現実、内面と外面、自分の中で一致していないことが引き起こす感情だと思うからです。


2017年9月1日金曜日

絶望の学習〜Learned Helplessness

entry #14
<サッドマネージメント塾-第14夜>

ケージに入れた犬に軽い電気ショック(嫌悪刺激)を与え、ある行動(頭を動かすなど)をすると電気が停止することを学習させる。

次には、同じ電気ショックを与え、今度は何をしても電気は停止しない。

大雑把な言い方ですが、かつてアメリカでこんな実験が行われました。

今なら「動物虐待だ!」なんて言われそうですが、科学のために動物が犠牲になることも往往にしてあるのです。

行動心理学の動物実験で、有名なものがいくつかあるのですが、その中でもこの実験は、私にとって衝撃的であり、印象的なものでした。

これは、Learned Helplessness(絶望の学習)と呼ばれていて、犬が「何をしても仕方がない」ことを学習してしまったという実験です。

何をしても仕方ない、意味がない・・・これってやっぱり絶望状態ですよね。

私たちも、日常生活の中で、よかれと思ってやったことがダメ、

何をしてもうまくいかない、

「鈍すりゃ貧する、藁打ちゃ手打つ、便所入ったら人が入っとる・・・」

これは上方落語米朝師匠の一説ですが・・・(笑)

そんな状況が続いたら、

「もう知らん!どうにでもなれ!」

という絶望状態になってしまいます。

この実験の話をしたのは、絶望あるいは無力感というものが、科学的に実証されているということが言いたかったのです。

私たちは、日頃なんどもこのような絶望感や無力感に襲われます。
絶望は哀しみよりもひどい状態だと思います。
もはや哀しみさえ感じないのですから。

しかし、この状態は当事者にだけ訪れるものではなくて、同じ状況に置かれたら誰だってそうなる、そしてそれは物理的な、再現性のある現象であることを理解していたらどうでしょう。

絶望に陥った人間は、暗く深い穴の中に落ち込んだような気持ちになり、この世の中で自分だけがこんな辛い状況に陥っているのだという孤独感を伴います。

そのときに、いやそうじゃない、それはたまたまそんな状況が重なって、その反応として誰でも同じ心理になり、「何をしても仕方ない」という考えを持つに至るのだ。

そう思えば少し軽減されませんか?

この辛い状況をもたらしたものは偶然性のもので、その偶然起きた事柄がなくなりさえすれば、絶望する必要もない、また、次には必ず違う状況が訪れるのだ、そう考えを改めれば、再び希望が見えてくるのではないでしょうか?

こうした絶望に固執した考えをシフトチェンジすること、それが今でいう認知行動療法なのです。




■以下、Wikipediaから抜粋

[Learned Helplessness]

1967年、アメリカの心理学者マーティン・セリグマンとマイヤーが犬を用いて行ったオペラント心理学実験があります。
心理学者のマーティン・セリグマンが、1960年代にリチャード・ソロモンの元で学生生活をしていた時期に思いつき、それ以来10年間近くの研究をもとに発表した。抵抗や回避の困難なストレスと抑圧の下に置かれた犬は、その状況から「何をしても意味がない」ということを学習し、逃れようとする努力すら行わなくなるというものである。
学習性無力感は、1967年にセリグマンとマイヤーが犬に対して条件付けを用いて行った研究[7]によって提唱された[3]。また別の1967年の論文の[8]、実験の内容は以下である[5]
犬を以下の3つの群に分け、オペラント条件づけに従って、電撃回避学習を課した。
  • 頭部を動かすと電撃を停止できる群。
  • 第一統制群:パートナーが受ける電撃を同様に受ける。
  • 第二統制群:電撃を受けない。
第一統制群の、自分では電撃を停止できない犬は、回避行動をとらず、電撃を受け続けた。こうした実験によって非随伴的な刺激が与えられる環境によって、何をやっても無駄だ、統制不能だという認知を形成した場合に、学習に基づく無力感が生じるとし、学習性無力感が提唱されたのである[5]
続いて、サカナ、ネズミ、ネコ、サル、ヒトでも、適応的な反応を起こさなくすることが、実験にて観察され、その学習性無力感の症状が、うつ病の症状に類似しているとされた[5]
セリグマンは、1975年には、人間も加えた研究を加えて、うつ病の無力感モデルの理論的な基礎を形成し、1980年代にはその治療や予防に関しても、学習性無力感とうつ病とで比較し、それら二項間における内容はほぼ同様である[6]
1990年代には、セリグマンは楽観主義についてより多く執筆した[9]。セリグマンは、2000年ごろにはポジティブ心理学を提唱する。

治療[編集]

セリグマンらは、学習性無力感における「反応しても無駄であるという信念」を変える方法に認知行動療法を挙げている[11]。人間で効果が確認されている方法は、自尊心を回復したり、随伴性を示したり、失敗は別の理由で起こったと説明し励ましたりすることである[12]