2017年8月3日木曜日

哀しみにマネージメントは必要か?

entry #3
<サッドマネージメント塾-第3夜>

Anger Managementにインスパイアされて、Sad Managementなどと言いだしましたが、果たして、Sad(哀しみ・悲しみ)にマネージメントなど必要なのでしょうか?

怒りの場合、社会において、それが人を傷つける言動になったり、暴力を誘発させたり、ひどくなれば争いにまで発展する可能性があるわけで、そうしたことを防止する意味でも、怒りをコントロールする技は必要かもしれません。

ところが悲しみについてはどうでしょうか?

悲しみは誰かを傷つけるでしょうか。
いや、むしろ、悲しみは誰かから傷つけられた時に起きる感情です。
だから、外に向けてというよりは、自分自身を守るために哀しみをコントロールする術が必要なのかもしれません。

そして、悲しみは暴力や争いを引き起こすのでしょうか?
直接的にはそのようには結びつきません。
しかし、あまりにも深い悲しみに、心身ともに傷ついてしまった人間のこころは、
やがて怒りの炎へと変化してしまう可能性はあります。
シンプルに湧き起こった怒りよりも、悲しみ転じて燃え盛る怒りは、強烈なものになってしまう!というような物語はあるのではないですか?
物語的には復讐劇なんていうものがそれですね。
シェークスピアの「ハムレット」や、第88回アカデミー賞受賞の「レヴェ何と甦りし者」
は、悲しみの果てに復讐を遂げるお話です。

こう考えると、悲しみが暴力に直結するわけではありませんが、怒りの火種となる悲しみをマネージメントすることは必要なのかもしれません。

復讐劇なんて、話はいささか飛躍しましたが、人間にとって悲しみを抱くことは、なんらかマイナスの方向に転じてしまうことは想像するに難しくありません。

悲しみのあまり、会社に行けなくなってしまった。
悲しみのあまり、家族が崩壊してしまった。
悲しみのあまり、頭がおかしくなってしまった。
悲しみのあまり、性格が歪んでしまった。
悲しみのあまり、人生が狂ってしまった。
悲しみの果てに、身を投げてしまった。

想像の世界ではこのようなことが考えられますが、世の中で起きている様々な事件や悲劇の裏には、このようなことが結構あるのではないかと思います。
ということは、今は関係ないと思っている私にとって、他人事ではないような気がしてきます。

実際のところ、昨年私自身が体験したことですが、十四年間可愛がってきた愛犬を病気で亡くしました。
人でも動物でも、いつかは死んでしまうことがわかっていても、いざ死を迎えてしまうと、その悲しみははかり知れません。
直後には四六時中亡くした愛犬のことを想い、一年をすぎた今でも、折に触れて彼女のことを思い出しては当時の悲しみが舞い戻ってきます。
愛犬を亡くした悲しみですら、無気力や虚脱感でいっぱいになりました。

私の場合は徐々に立ち直ってきていますが、未だに犬を飼う気になれません。
私などと違ってもっと繊細な性格の人であれば、そのままこころの病に陥ってしまうこともあるかもしれません。

そうした場合にはメンタルケアが必要になるでしょう。

Sad Managementとは、こうした、悲しみに囚われた人を救済するためにあるべきもの、
私はそう考えます。


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