2017年8月27日日曜日

哀しみからの立ち直りに潜む2つの危機。

entry #11

<サッドマネージメント塾-第11夜>

悲しみの淵に立たされたときから立ち直りまでの間に何らかの危機が潜んでいる。
前エントリの最後にそのように書きました。

 ①悲しい事実の否定
 ②悲しい事実に対する怒り
 ③事実を受け入れる前の鬱状態
 ④事実の受容
 ⑤立ち直り

いったい、この心理プロセスのどこに、どのような危機が潜んでいるのでしょうか?
ひとつは怒りの中に潜んでいます。
悲しみの果てに生じる怒りは、おおむね理不尽な怒りです。

こんな悲しい目に遭わせたのは誰なんだ、誰のせいでこんなことになったのだ?
実際に起きた事実とは違う誰かに向けられる怒り。
医師であったり、失われた人の周囲にいる人であったり、あるいは家族であったり。
その誰かの責任ではないにもかかわらず、哀しみに暮れる者は理不尽にも怒りの矛先を彼らに向けてしまうのです。

怒りのあまりに矛先が向けられた人物を殺めてしまう……そこまでサスペンス劇場的なことは滅多にないとしても、理不尽な怒りは後に遺恨を残す事態を引き起こすかもしれません。
人間関係に影響したり、家族関係に亀裂を生じさせたり、くらいのことはありうるでしょう。

さらに問題なのはもう一つの危機。それは自死の危機です。
事実を受け入れた結果、ひどい鬱状態に陥る人もいます。
鬱状態イコール自殺というわけではないのですが、大切な人の死があまりにも受け入れがたいものであったとき、しかしそれを受け入れざるを得ないとわかったとき、そこに現れる鬱は、通常のストレスから生じたものとは比べ物にならないほど深く大きく計り知れない虚無感をもたらすかもしれません。

こうした生への虚しさは自死に繋がる可能性は低くないでしょう。
また、自死の危機は鬱状態のときのみならず、そこから立ち直りをみせるタイミングでも訪れることがあるのです。


悲しみの心理プロセスの理解に意味はあるのか?

entry#10
<サッドマネージメント塾-第10夜>

少し堅い感じのエントリが続きました。
キュープラー・ロスによる「自分の死を受容する5つのプロセス」と、このアイデアをベースにしたと思われる「悲嘆に遭遇したときの心理プロセス」についての2パターンのプロセス。

いずれの場合も大きく分けると、
 ①悲しい事実の否定
 ②悲しい事実に対する怒り
 ③事実を受け入れる前の鬱状態
 ④事実の受容
 ⑤立ち直り

という5つの段階に整理できるのではないでしょうか。

なぜ、このような心理プロセスについての記述が必要なのでしょうか?
哀しい事実と遭遇して理性的でいられる人は少ないでしょう。
混乱し、我を忘れ、どうしていいか途方に暮れた状態で、まともな思考ができなくなってしまう人もいることでしょう。

なぜこんなに深い悲しみの淵にいるのか、
なぜわけのわからない怒りや憎しみがわいてくるのか、
どうしてなにもかもがどうでもよくなってしまうのか。

悲しみに暮れている自分の中にわき起こるさまざまな感情によって、
また新たな混乱に巻き込まれていくかもしれません。
しかし、そうした複雑な感情は決しておかしなことではない、誰にでも普通に起きることなのだ、それを知っておくことが救いになるかもしれません。
あるいは悲しみにくれる人の傍にいる人にとっても、このような心理プロセスが訪れているのだと分かっていれば、心配も半減できるかもしれません。

悲しみの真ん中にいる本人であれ、その傍にいる友人であれ、
悲しみからの回復にはプロセスが必要なのだと知っておくことによって、何か対処の仕方が見つかるかもしれません。

否定や怒り、うつ状態、受容、立ち直りという各プロセスに必要な時間は、人によって、あるいは起きてしまった事実の深さによって短かったり永遠だったりもするでしょう。
それでもいつかは立ち直りが訪れる。

しかし、ここで考えておくべきことは、どこかしらに危機が潜んでいるということです。
どこに、どんな危機が潜んでいるのか?
それは次エントリに譲ることにします。


12段階の悲嘆のプロセス。

entry#9
<サッドマネージメント塾-第9夜>

前エントリでは、平山博士が唱えた悲嘆のプロセス4段階を記しましたが、さらに悲嘆のプロセスを12段階でまとめた学者もいます。生死学を専門とする上智大学名誉教授の哲学者アルフォンス・デーケン博士です。(哲学者アルフォンス・デーケン「よく生き よく笑い よき死と出会う」新潮社 20039月発行)

以下、哲学者アルフォンス・デーケン氏の著作「よく生き よく笑い よき死と出会う」から抜粋された記事を参考に記述しました。


(1)   精神的打撃と麻痺状態(shock and numbness
 愛する人の死に出会うと、その上、その死が唐突であればあるほど、そのショックは大きすぎて、一時的に現実感覚が麻痺状態に陥ります。「頭の中が真っ白になっ て何もわからなくなった」と言われる状態です。これはいわば一時的な情報遮断状態であり、心身のショックを少しでも和らげるために起きる、生体の本能的な防衛機制といわれています。 

 普段はとてもしっかりしていた人がこのような真っ白な状態になったからといって精神的におかしくなったというわけではありません。一過性の現象であり、心配する必要はありませんが、この状態が長引けば問題になってきます。


(2)   否認(denial
 愛する人の死を感情的に受け入れられないばかりか、理性としてもその人の死という事実を否定しようとします。死ぬはずはない、何かの間違いだ、どこかで生きているのだ、そのうち元気な姿を見せるはずだ……などと、思い込みます。

 この現象は、決して頭がおかしくなり、混乱しているわけではありません。相手の死を 感情と理性の両方で受け入れられない時期があることを理解しなければなりません。


(3)   パニック(panic
 身近な人の死に直面した恐怖から、極度のパニック状態に陥ることがあります。これもしばしば見られる現象ですが、一過性であれば問題はありません。


(4)   怒りと不当感(anger and the feeling of injustice
 やがてショックが収まると、悲しみと同時に不当な苦しみを負わされたという激しい怒りに変わります。交通事故や急病による突然の死の後では、この感情が 強く現れます。交通事故などのように、愛する人の命を奪った相手がいる場合には、加害者に対する怒りがいっそう強くなります。

 また、病院で亡くなったりすると、その怒りが看護婦や医者に向かうこともあります。いずれにしても、なぜ自分だけがこんな不幸に遭わなければならないのかという不当感がつきまとい、 自分にひどい仕打ちを与えた運命や神に対する怒りが表出されることが多いのです。

 逆に、この怒りの感情を外に向かって率直にはき出せず、いつまでも怒りを心の中に留めていると、知らずしらずのうちに心身の健康を損ねてしまいます。このような場合、無理に怒りの感情を押し殺さず、上手に発散させることが重要になります。

 また、周囲の人も、悲嘆のプロセスの初期に、怒りや不当感を強く感じる時期があることを理解しておかなければなりません。この怒りの感情表出に対して、周囲の人が反応してしまうと、本人はますますやり場のない怒りの感情を心の内にいだくことになるからです。


(5)   敵意とルサンチマン(うらみ)(hostility and resentment
 周囲の人々や亡くなった人に対して、敵意という形でやり場のない感情をぶつけてきます。特に、最後まで故人のそばにいた医療関係者がその対象となることが多いようです。

 これは、日常的に患者の死を扱う医療者側と、かけがえのない肉親の死に動転している遺族側との間の感情の行き違いによる場合もあります。最近は、医療事故などが問題となり、医療者側と遺族側との間に信頼関係がしっかり形成されていないと、とりわけ医療者側に不信や敵意が生じやすいようです。

 また、時には故人に敵意が向けられる場合があります。本人の不注意や不摂生が、直接的にか間接的にか死亡原因となった場合には、死んだ人の無責任を責めるという形でやり場のない敵意を表現します。


(6)   罪意識(guilt feeling
 悲嘆のプロセスが進むと、自分の過去の行いを悔やみ、自分を責めます。あの人が生きているうちに、もっとこうしてあげればよかったとか、逆に、あの時あんなことをしなければもっと元気でいたかもしれないなどと考えて、後悔の念にさいなまれます。


(7)   空想形成、幻想
 空想の中で、亡くなった人がまだ生きているかのように思いこみ、実生活でもそのように振る舞います。たとえば、夫を亡くした奥さんが、夫が亡くなって1 年以上も経っているのに、毎晩夫の分まで食事を作り、食卓に並べてじっと待っていたりします。また、子供を亡くした両親が、亡くなった子供の部屋を片づけられず、いつ帰ってきてもすぐ着替えられるようにパジャマまで揃えて、何年もそのままにしているということもあります。


(8)   孤独感と抑鬱
 葬儀などの慌ただしさが一段落して、落ち着いてくると、紛らわしようのない独りぼっちの寂しさがひしひしと身に迫ってきます。人によっては、気分が沈んで 引きこもってしまったり、だんだん人間嫌いになったりします。これもたいていの人が通らなければならない重要な悲嘆のプロセスです。

 しかし、この時期が長 引いてしまうと、健康を損なってしまいます。周囲の暖かい援助が必要で、早くこの時期を乗り越えることが大切です。


(9)   精神的混乱とアパシー
 愛する人を失った空虚さから生活目標を見失い、どうしていいかわからなくなり、全くやる気をなくした状態に陥ります。これも正常な悲嘆のプロセスの一部で すが、この状態が長引くようだと健康を損ねてしまいます。その場合には、精神科医やカウンセラーなどの専門家の援助が必要となります。


(10) あきらめ―受容
 日本語の「あきらめる」という言葉には、「明らかにする」という意味があり、この段階になると、愛する人はもうこの世にはいないというつらい現実を「あきらか」に見つめて、相手の死を受け入れようとする努力が始まります。受容というのは、ただ運命に押し流されるのではなく、事実を積極的に受け入れていこう とすることです。


(11) 新しい希望
 ユーモアと笑いが再びよみがえってきて、次の新しい生活への一歩を踏み出そうという希望が生まれます。健康的な日常生活を取り返し、愛する人の死を現実の生活から切り離すことが出来るようになります。


(12) 立ち直りの段階
 悲嘆のプロセスを乗り越えるというのは、愛する人を失う以前の自分に戻ることではなく、苦痛に満ちた喪失体験を通じて新しいアイデンティティを獲得することを意味しています。それにより、悲しみを乗り越え、より成熟した人間へと成長することが出来るのです。

(補足)悲嘆を体験する人がすべてこれらの12段階を通るわけでもなく、また、必ずしもこの順序通りに進行するとは限りません。時に、複数の段階が重なって現れることもあり、だいたい立ち直るまで最低1年くらいはかかります。



 いかがでしたか。先のキュープラー・ロスの5つのプロセスよりもさらに細やかなプロセスの記述は、非常にわかりやすく、そのような段階があるだろうことに共感を覚えます。いずれにしても、大きな哀しみと遭遇してしまった人間は、我を忘れ、否定にかかり、やがて怒りを感じ、このようなプロセスを経て乗り越えていくのだという流れには共通したものがあるようです。

悲嘆における4つのプロセス。

entry#8
<サッドマネージメント塾-第8夜>

グリーフワークという言葉があります。
グリーフ(grief)とは、死別などによる深い悲しみ・悲嘆、後悔、絶望と訳されています。人の生においてかけがえのない大切な人や時間を失ったときの、深い悲しみを意味します。

このグリーフ=悲嘆に陥ったときの人間心理を、様々な学者が分析しています。
主には、先にエントリしたキューブラー・ロスの死を受容するプロセスと同様な考え方に立しているようです。

たとえば、精神科医でクリスチャンでもある故平山正実博士は、近しい者と死別した時に現れる悲嘆のプロセスを4段階に整理しています。
また、これらの段階は1から順番ということでもなく、入れ替わって出現することもあるといいます。

悲嘆のプロセス4段階 

1.ショック(ストレス)

感覚が麻痺し、涙も出ない、感情が湧かない、足が地につかない状態。
何も考えられず、混乱した精神状態の中で何にも集中できない。
食べる、眠るなどの、簡単な日常生活のことさえもできなくなってしまう。

2.怒りの段階(防衛的退行)

悲しみ、罪責感、怒り、責任転嫁が現れる。
深い悲しみの中で、故人や周囲の人を責め、そう考えてしまう自分自身をも責める気持ちが混在する。
故人との思い出にふけり、現実を容認できない。
夢想や空想と現実の区別がつかなくなっている。

3.抑うつの段階(承認)


絶望感、深い抑鬱、空虚感、無表情、希死念慮。
周囲のすべてのものへの関心がなくなり、自分を価値のない人間だと感じる。
適応能力が欠損し、外出せず、引きこもり状態になる。

4.立ち直りの段階(適応と変化)

徐すこしづつエネルギーが湧いて、新しい希望が見えはじめる。
周囲との関わりをもっと大切にしようと考える。

故人の死の現実を認めはじめる段階。


以上、キューブラー・ロスが提唱した「自己の死を受け入れる5つのプロセス」と非常に近しい内容のものですね。
こうしたいくつかの段階が順不同で現れて、最終的には4の立ち直り段階に到達するという説です。